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【ICUのミスコンに反対するひとに10の質問】

長いです。めっっっっちゃ、長いです。先に謝っときます。

 6月3日、ことし10月末にICU(国際基督教大学)の学園祭(ICU祭)においてミスコンが開催されるという情報が、ツイッター上でながれた(ICU-CP9[主催団体]、2011年ICU祭実行委員会 企画調整局ICU祭実行委員会企画調整局サイト)。それからというもの、ツイッター上では様々な見解がいりみだれ、このイベントの開催に反対するわたしもいろいろな発言をしてきた。それらのツイートは togetter まとめ『ICU(国際基督教大学)でミスコン!?』にまとめることにし、ほかのひとの協力をえながら、2000以上のツイートを収集してきた。

 そのなかでわかったことは、意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していないこと、そして意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していたことだ。つまり、賛成派も反対派も、おもったよりもおおかった。「どうでもいいじゃん」というひとはそもそもあんまりツイートでミスコンにふれない、ということかもしれないけれど、割合としてだけでなく、単純に数として、反対派も賛成派もおおくのツイートを発信していた。

 そこで発信されたツイートには様々な論点がふくまれていたし、たとえばミスコンが企業とむすびついていることがおおいという指摘など、わたし自身がきづいていなかった論点もいくつかあった。反対派・賛成派のツイートをいくつもよんでいるうちに、賛成派にも多様な理由があり、反対派にも多様な理由があるのだなあということもわかった。わたし自身、反対派を表明するひとのツイートには、どうしても賛成できないものもみかけた。

 もちろん、反対するひとはみんなおなじ理由で反対しなければいけないわけではないし、ある理由がほかの理由よりもすぐれているとも断定はできない。でも、「おなじ反対派だから」という理由で批判をさけることはおかしいとおもうし、わたしをふくめみんなの人生は「ミスコン」、ましてや「ICUのミスコン」だけでうめつくされているわけでもない。ことしのICUのミスコンが中止になろうと、あるいは世界中のミスコンがすべてなくなろうと、それ以外のところでわたしたちは様々な性の問題に直面するし、性以外の様々な問題にも直面する。「ミスコンに反対する」という1点において団結し、そのなかにあるちがいをにくちをつぐむのなら、それは、そういった「ほかの問題」を容認することになってしまうだろう。

 というわけで、反対派にもいろいろな立場のひとがいるだろうとおもい、「ICUのミスコンに反対するひとに10の質問」というのをつくってみた。たぶんいろいろな回答があるだろうとおもう。「反対派」といえども、それぞれちがうおもいがあって反対しているんだ、ということが、これによってすこしだけあきらかになればいいな、とおもっている。
 質問がわるいとか、10こじゃたりない、という指摘もあるとおもうけれど、とりあえずわたしがおもいつくかぎりで、論点となっているものをえらんでみた。(というか、わたしがちゃんと「反対派」として明確にしておきたい論点をえらんだので、わたしの関心にかなりかたよっているとおもいますm(_ _)m)

ICUのミスコンに反対するひとに10の質問

1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど)

2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。

3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか?

4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか?

5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか?

6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか?

7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。

8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。

9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか?

10. ミスコン関係なく、あなたが普段から「よくないなあ」とおもっていることがあったら、おしえてください。

 こういう「〜への10の質問」のたぐいは、わたしが回答するときにはいつも「質問がわるい!」とか「重要なことがぜんぜんふくまれてない!」とかおもってしまうのだけれど、きっとほかのひとからしたらこれもそういうふうにおもわれるかもしれない。というわけで、改変は大歓迎です。

わたしの回答

 「ICUのミスコン企画に反対する会」Facebookページグループにさそわれて、いまは管理人としてもうごいているのだけど、この会はわたしやもうひとりの管理人の個人の意見をだす場所ではなく、情報や意見ををやりとりする場所、まとまってなにかやりたいひとがきっかけにできる場所として運営している。共同声明を十数名の呼びかけ人の名義でつくったけれど、これはあくまで呼びかけ人の名義であり、「反対する会」全体の意見を代表するものではない。なので、個人的な意見はツイッターでのみ発信してきた。というわけで、以下のわたしの回答も、「反対する会」や「反対派全体」の意見を代表するものではないことを、つよく、言っておきます。

1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど)

 はい。

2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。

 ひとつに、「よい女性像」が「よい男性像」にくらべて多様性にとぼしく、しかも実現するのが比較的むずかしいということがあります。たとえば男性であれば「愛想はわるいけど、正直もの」とか「ブサイクだけど思いやりがある」ような男性が「よい男性像」としてえがかれることがありますが、女性はなかなか「だけど」とおもってもらえません。
 すこしでもわるい(とされる)ところがあると、いきなり「ダメな女」あつかいをうけたりします。「家事がへたくそ」「こどもがきらい」「ふとっている」「浮気している」「下品である」「ブスである」「貧乏くさい」「くちうるさい」「不妊症である」「レズビアンである」「障害をもっている」などは、それだけで「魅力的な女性」にはなれないときめつけられる(ことのある)理由のほんのいくつかの例です。もちろん最近は「よい女性像」の数もふえてきています。それでもいまだに、世のなかは男性にたいして比較的あまい評価をくだしているのが現状だとおもいます。
 また、「よい女性像」にちかづくための要素には、なぜか不断の努力を必要とするものが比較的「よい男性像」のそれよりも、おおいです。体型も、家事も、子そだても、理想どおりにやっているとおもわれるためには、ほぼ毎日の努力が必要となります。でも男性は「正直なことを言う」「思いやりのある態度をとる」「なにか危険なことがおきたときに、たすける」「いざというとき、たよりになる」など、単発の行動をときどきおこなうだけでも「いい男性像」をアピールすることに成功したりします(もちろん失敗することもあるでしょうけど、そういう単発のなにかで女性が「いい女性」と評価されることはなかなかありません)。
 また、「よい女性像」の条件のひとつである「みためがうつくしい」にしても、その価値観を毎年うまく誘導して商売にしているファッション業界・化粧品業界・雑誌業界などのえらいひとたちがほとんど男性であることは、つまり世のなかにひろまっている「よい女性像」が男性がかんがえる「よい女性像」につよく影響をうけていることを意味します。それは、「よい女性像」が多様になり、達成が容易になることを阻んでいるひとつの原因だとおもいます。
 ミスコンは、そういった世にひろまった「よい女性像」(なかみがなんであれ)をみんなで「こういうのがいい女性だよね」と再確認するイベントであり、「よい女性像」の多様化と容易化を阻むので、反対です。

 つぎに、「みる・みられる」の関係は、これまでずっと「男性=みる人、女性=みられる人」というかたちをとってきました。これも、テレビをはじめとした芸能ビジネスの発展や、芸能情報発信をする地位(プロデューサーなど)に女性がふえてきたこと、そして女性がみずから自分の欲望やのぞむことをくちにだせる機会が(女性運動やその他の歴史をとおして)増えてきたことなどによって、もちろん最近はかなりかわってきています。男性も女性のように「みられる人」の立場にたたされることがあること、そして男性も女性のように「みられる人」として商品(写真集、イメージビデオなど)にされることがあることは、先進国とよばれる地域にいて大衆文化を消費しているひとなら容易に実感できる歴史的変化だろうとおもいます。
 しかし、こういった変化(男性が「みる人」の立場に常にたっていられなくなったこと)にたいして、男性からのつよい反発がでることがあります。たとえば、BLとよばれる男性間の性愛をえがいた作品ジャンルにつよい嫌悪感をいだく男性はすくなくありません。そもそも男性同性間の性愛自体に嫌悪感がある、など、様々な要因があるとはおもいますが、そのひとつには、女性によって男性がえがかれ、それを女性によって消費されているということへの、つまり「みられる人」の立場に男性がおかれていることへの反発もあるとおもいます。ネットでは有名な「ただしイケメンにかぎる」というフレーズも、男性が「みられる人」の立場におかれることが(女性ほどではないにしても)ふえてきた現状への不満を、「イケメン」を好む(とされる)女性への揶揄に転化することで解消しているとも解釈できるでしょう。同じことが、「韓流ブーム」をばかにする男性にもいえるかもしれません。男性が「みられる人」の地位におちてしまうのは、なかなかつらい体験なのかもしれません。しかしそもそも「みる人」より「みられる人」の地位がひくく設定されていること自体が、おかしいのですが。
 いずれにしても、この変化はまだはじまったばかりです。ネットだけではなく、学校や職場、地域のひとたちのふるまいをかんがえてみてください。こころのなかで「あの男とやりたい」とおもっていたとしても、それを周囲にきこえるところでくちにだしたとたん、男性からも女性からも「あそんでる」とか「ビッチ」とか「常識がない」とか思われる女性がいるいっぽうで、「あの女とやりたい」と男性が公言してもその男性がほかの男性から非難をうけることはほとんどないでしょう。とくに、既婚のひとだったらその差はもっとひろがることでしょう。逆に、その男性を非難する女性がいたら「冗談がつうじないな」とか「男はそういうものなんだよ」とか言われて、非難自体が無効であるかのように扱われたりします。
 こういった男女のあつかわれかたの違いがまだまだ存在する以上、ステージに女性をならべて、審査員ふくめ会場のひとが(おうおうにして異性愛者の男性目線で構築された)世にひろがっている「よい女性像」をあたまにうかべながらならんだ女性をながめて、どの女性がより「よい女性」かの評価をくだすイベントであるミスコンには、反対です。そんなミスコンが今回、これまでのICUにおけるミスコンにかんする歴史を一切ふりかえらないかたちで開催の仮決定まですすんだことは(仮決定のあとも、学内限定サイトのみでの告知)、少しずつ「みる・みられる」の関係の男女差が小さくなりはじめている現代社会への反発があるのかもしれません。

 また、「ミスコン」という言葉には、「ミス」という独身女性につけられる言葉がふくまれています。独身女性しかエントリさせないというルールによって、いったいだれが得をしているのでしょう。「ミセス」(既婚女性)がまじっていたらこまるのは、だれなのでしょうか。
 ミスコンは「よい女性像」にもっともちかい女性を選ぶコンテストですが、おおくのミスコンでは(エントリするひとがある程度いれば)事前審査にうかった女性が大衆のまえにならぶのであって、かのじょらは事前審査においてすでにある程度「よい女性像」にちかいと判断された女性ばかりです。そうでなくとも、エントリする、あるいは他薦によってエントリされるためには、一般的な「よい女性像」からそうとおくないという自負なり、まわりからの評価が必要です。つまり、ミスコンは「1位の女性をみんなで賞賛するイベント」というだけではなく、「それぞれに一定レベル以上にはいい女である複数の独身女性をならべて、みんなで眺める機会」でもあります。
 「ミス〇〇」が独身女性であることの意味は、「匿名の現役ミスの方からのメッセージ」に書きました。つまり、日常生活では既婚か未婚かをみわけることができない雑多な「女性」というカテゴリーから、「妻・嫁にすることができる女」(しかもある程度「いい女」)だけを抽出し、ステージにならばせるイベントなわけです。
 そのような機能をもった「ミス」コンは、女性を「ひと」としてではなく「妻」や「嫁」という立場にふさわしいかどうかでふりわける、つまり社会的な役割におしこめることができるかどうかで評価をくだすイベントであり、その点でもわたしはミスコンに反対します。

 また、「えらぶ」側のひとのおおくが男子生徒や男性教員であること、そして前述のとおり、いずれにしても世にあふれている「よい女性像」を構築しているのは男性の目線がほとんどであることは、以下のことを意味します。つまり、ミスコンで1位にかがやいた女性は、みずからの身体や能力だけを学外にしらしめるだけでなく、どのような男性的目線が彼女をえらんだのかをも体現しているということです。すなわち、「ミス〇〇大学」は、その大学の「女性生徒」だけでなく、その大学における「男性たちの目線」をも代表させられるのです。「どんな女を評価する男性がいる大学なのか」の指標のひとつに、ミスコンがある、という。また、学内の男性同士でも「やっぱあの子が一番かわいかったよな」みたいなやりとりで、意識の統一が成功したりします(実際には失敗していても、失敗していることを告発できない空気が生まれたり)。「みる・みられる」の関係は、女・男のあいだだけではなく、ひとびとのあいだに様々な境界線を引き、固定化し、また、(たとえばミスコンのような)儀式によって最確認されるものなのです。
 もっと一般的なはなしをすると、地域や集団の代表に女性がえらばれることはすくなくありません。しかしそれは、そのひとが女性であることがなにかと都合いいときにかぎられます。つまり、女性が政治家として選挙に当選することはなかなかないもかかわらず、たとえば沖縄をえがいた映画で登場人物の女性が「沖縄」のイメージを担当させられることはおおいですし、あるいはニュージーランドがイギリスの植民地だった時代にニュージーランドにわたった植民者男性たちが「イギリスの男は女性的で、本当の男性性をうしなっている」という解釈をすることで「ニュージーランドの男性性」を構築しようとしたことなどにも、あらわれています。つまり、ほかのなにか(「沖縄」にたいする「日本」、「イギリス」にたいする「ニュージーランド」)とくらべて下位においておきたいものに「女性性」をおしつけることが、よくあるのです。白人がインドや中東に旅にでて現地の女性と恋におちるというおきまりのハリウッド映画も、おなじパターンをなぞっています。
 これは、外部からの目線にとって、ある文化の「女性性」の表象が、一種の「視覚的快感」をあたえるポルノグラフィとして機能していることをしめしています。それは、ときに性的な快感であり、ときに「女性性」を見下ろす優越感の快楽でもあり、ときには異文化を身勝手に消費する快感であり、ときにはそのすべてが混じってることもあるでしょう。「ミスアメリカ」とよばれる女性には、かってに「アメリカ文化」や「アメリカ人らしさ」という偏見がむけられます。「ミス日本」も、「ミス・ニューハーフ」も、他者からみればそれは、たんなる「女性」ではなく、フェチシズムの対象となる属性をもっているのです。大学のあいだで実際におおきな文化的差異があるとはおもえませんが、それでもひとは、「〇〇大学らしさ」というものを漠然としんじていたりします。たとえば、「岩手大の女子生徒」にはなにか素朴な部分があるとおもってやいませんか。「東大の女子生徒」にはちかづきにくさとか、恋愛経験のすくなさを期待してやいませんか。さらに、短大だったら知性がかけているとおもったり、理系の大学だったら勝手に白衣姿を想像したり、女子大だったら上品さを期待したりレズビアン関係を疑ったりしていませんか(いや、していないのならいいんですけど(笑))。
 これは、もちろん、「男だったら自分の大学の女子を学外からのフェチシズム的な目線から守れ」と言っているわけではありません。守らなくていいので、加担するのをやめましょうと言いたいのです。
 「ミスコンをやりたがってる女子生徒がいる」という反論もあるとおもいますが、わたしは「〇〇をしたがってる友人がいる」からといって、それをてつだうかどうかは「〇〇」がただしいことかどうかできめます。重要なのは自分がそれをただしいとおもうかどうかであって、その判断を保留にしたままで「友人のために」と言ったり、本当はただしくないと思っているけど「友人のために」と言って責任を友人におしつけることはよくないだろう、と言いたいのです。「ミスコンをやりたがってる女子生徒がい」たとしても、自分がミスコンをただしいことだとおもわないのなら、やるべきではないでしょう。逆にいえば、どんないいわけをいったとしても、ミスコンをやるときには、自分の「ミスコンをやる」という決断にともなう責任が発生するということです。
 もちろんこれは、女性がみずからの意志でなにかの代表になることを否定するものではありません。他者からの消費的な目線は、それが(民族や障害、階級、セクシュアリティなどとからまったうえで)女性にかたよってむけられていることが不当なのであって、ひとまえにでたときに不当なかたちでみられたとしても、その女性には責はありません。反省的にみつめなおすべきなのは、その不当にかたよった目線のありかたを「よし」とするような、メディアや日常生活におけるひとびとの表現行為の蓄積です。だから、そのような不当にかたよった消費的目線を追認するミスコンというイベントには、「今後もかたよったままでいいのだ」というメッセージを送ってしまう側面があり、その理由でわたしはミスコンに反対します。

3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか?

 まず、「容姿だけではなく」といっても、結局、容姿が(ある程度)「よい」と認定されなければほかにどんな長所があったとしても「ミスコン」で1位になることはむずかしいでしょう。
 そして、わたしは容姿以外の様々な能力をふくめて「ひとりの人間として」女性をみること自体には重要性をかんじるものの、それをミスコンという形式でおこなうことには反対です。というのも、「ひとりの人間として」AさんはBさんよりもすぐれている、という表明を公に、それも集団の判断によっておこなうことが、よいことだとはとてもおもえないからです。むしろ、「容姿だけ」でランクづけするよりも、よっぽど非人道的なことなのではないかとすらおもいます。

4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか?

 まず、これらの派生ジャンルはすべて、ミスコン批判を回避するためにかんがえだされたものだということをかんがえるべきだとおもいます。つまり、「ミスターコンもやるからいいだろう」などといってミスコンを擁護したいがためにかんがえだされたものだということです。そのやりかた自体に、わたしは卑怯さをかんじます。

 また、上にかいたように、わたしがミスコンに反対する理由は、ミスコンが社会全体にある「よい女性像」とのかかわりにおいて、それを強化したり、多様に発展していくながれをとめる効果をもっていることです。ですから、社会全体において男性がどうみられているか、女性がどうみられているか、そして女装・男装するひとがどうみられており、しないひとがどうみられているか、という点でかたよりがある状態では、かれらをどんなに形式的には平等にならべても(あたかも本当に平等であるかのように)、社会のそういったかたよりに影響をうけていないわけがない審査員や聴衆にランクづけさせるのでは、ちっとも平等ではありません。
 「ミスターコンだけをやっている」「男装コンテストだけをやっている」などのところは、すこしだけマシかもしれませんが。また、ミズコン(既婚・未婚をとわないバージョン)は、すこしだけマシだとおもいます。それでも、上でかいた「ミス=独身」問題以外の点では問題がのこっているとおもいます。

 また、女装コンテストは最近おおくなってきましたが、男装コンテストは非常にすくないです。これは、ミスコンがミスターコンよりも圧倒的におおいのと同様に、「よい男性像」よりも「よい女性像」のほうが画一的で、ランクづけがしやすいという要因が1つかんがえられます。また、男性による「女装」はなぜか男性にも女性にも肯定的にとらえられることがおおい一方で、女性による「男装」がなぜか同様の評価をうけづらいという状況もあります。
 これは大昔から文学など芸術の分野でうけつがれてきたかたよりです。たとえばシェイクスピアの演劇は、女性の役を(わかい)男性がえんじていました。それは、女性は演劇のステージにあがってはいけないという差別的なルールがあったからです。同様のことは、日本の歌舞伎などにもみられます。つまり、男性が「女性」をえんじることはゆるされていたのに、女性はなにをえんじることもゆるされていなかった。女性による演劇への参入がみとめられてからも、女性が「男性」をえんじることはほとんどゆるされてきませんでした。追記:この部分について、Cristoforouさんよりした。
 これは、人種にかんしてもおなじ現象がそこらじゅうにちらばっています。かつて米国では(いまでもその傾向はありますが)、テレビや映画において、白人俳優が黒人の役をやることはコメディなどでたくさんみうけられましたが、黒人俳優は(そもそも人数がすくなかったこともありますが)白人の役をもらうことはほとんどありませんでした。最近では、同性愛者の俳優が異性愛者の役をもらうことのむずかしさについて語った俳優が話題になりました。
 「大は小をかねる」という言葉があります。これはつまり、上位にあるとおもわれるものは、下位にあるとおもわれるものの代わりになることができるという意味です。この発想とおなじものが、「えんじる」という行為にもあてはまれられてきた歴史があるのです。
 いや、単に逆がむずかしかっただけじゃないか、という反論もあるかと思います。しかし白人による「黒人」の模倣は(表現方法に黒人を侮辱するものがおおかったというだけではなく)だいたいヘタクソなものばかりでした。白人は肌をくろくぬれば「黒人の肌」にみえるけど、黒人の肌を「白人の肌」にみせるのは大変だ、という一見もっともらしい説明もあるにはありますが、そもそも白人がぬりたくった「黒」は、ずさんで適当な黒でした。これは、「黒人の肌」が実際にどんなものなのかには興味などないから「充分黒人っぽくね?」と白人たちがおもってしまったのであって、同時に、おなじように適当にぬられた色でも、「白人の肌」には関心があるものだから、「こんなのは白人らしくない、ずさんだ」とおもったのでしょう。黒人のコミュニティでしばしばつかわれるしゃべりかたの特徴の模倣についても、おなじことがいえるでしょう。また、男性による「女性」の模倣にも「えんじる」という観点からは非常に完成度のひくいものばかりが蔓延しています。とくに声は、男性が「女性」の模倣をするのも、女性が「男性」の模倣をするのも、なかなかむずかしいものの1つです。それでも男性による「女性」の模倣は、たまたまうまければ賞賛され、ヘタクソでもコメディとして成立したりします。
 わらいというのは、基本的には「日常生活とのずれ」によって生じるものですから、ヘタクソな「女装」が笑いをとるのは、その「女装」のうらがわにある「本来の男性の身体」がつよく認識されていることを意味するでしょう。そして、その男性身体「にもかかわらず」えんじるという行為によって身体の制約からのがれて「女性」の模倣ができるだろうと期待されているのが男性です。「模倣」という「技術」であることが前提としてあるからこそ、男性身体とえんじられる「女性性」のギャップが明確に聴衆につたわり、わらいをうみだすのです。一方で女性は、どんなにがんばっても「男なみ」にはなれないとみくだされてきた歴史があります。「なんだかんでいって生理で仕事やすむんじゃ、おおきな仕事はたのめないな」とか、「だってきみ、どうせ結婚・妊娠したらやめちゃうんでしょ? 出世したって意味ないじゃない」とか、女性をばかにしたものいいには、女性のいきかたや人格などを女性身体とむすびつけるものがたくさんあります。「男性」の模倣ができるわけがないとされてきた女性俳優もまた、その歴史から無関係ではないでしょう。

 最後に、「ICUらしさ」コンテストの問題も指摘しておきます。そもそも「ICUらしさ」とはなにを意味するのでしょうか。ICUは、エリート校です。実際にあたまがいいかどうかは個人によりますし、「あたまがいい」という基準もあいまいなものですが、すくなくとも学費はたかく、学生や教員にもとめられる学術的水準もたかく設定されています。ここには、階層の問題や、教育の機会の問題があります。
 「ICUらしさ」といったときに、外部からも内部からも「日英バイリンガル」「国際性」などが、とくに内部からは「批判的思考」「リベラルアーツ」などが、そしてとくに外部からは「キリスト教がつよい」「特殊な入学試験なので合格しづらい」などがきかれます。これらの要素をひっくるめて「ICUらしさ」と(かりに)呼んだとして、「国際的な経験(帰国子女なり留学経験なり)があり、日英バイリンガルで、リベラルアーツの教養をもち批判的思考ができるキリスト教信者のICU生」がえらばれるとしたら、それはおそらくかなりの確率で、「ICUのなかでも裕福な家庭のひと」でしょう。
 そういう予想が簡単にできる状況で「ICUらしさ」をきそわせることは、すなわち家庭の経済状況をきそわせることになります。そんなコンテストには、わたしは反対します。

5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか?

 ミスコンにエントリする女性には、様々なひとがいます。たとえば、「匿名の現役ミスの方からのメッセージ」で紹介させていただいた現役ミスのかたは、まちづくりに積極的に参加するつもりでエントリしたそうです。また、社会貢献を本気でやっているミスのひと、ミスコンのなかにある問題点を改善しようと内部からがんばっているミスのひと、おおきなミスコンにでて有名になることで知名度をあげて社会につたえたいことを発信しようとしているひと、などなど、本当に多様です。もちろん、就職活動に有利だからという合理的な判断をするひともいます。たんにたのしいイベントがすきだから、というひともいます。自分にもっと自信をもつために参加するひともいます。
 わたしは、そういうひとのことは、性別関係なく、がんばってほしいとおもっています。
 ミスコンには問題はあります。でも、いまある資源をつかって目標を達成することには、とくに非難する必要性をかんじません。
 たとえば社会的に男性に位置づけられるひとは、すでにいまある資源をふんだんにつかっています。仕事場で上司に意見をいってもはなしをきいてもらえなかったり、あろうことか「今度ゆっくり」なんていわれて食事にいったらセクハラされた!みたいなことになっている女性がすくなくないのに、一方で男性のほとんどははじめから「仕事はある程度できるだろう」と信頼してもらえるし、セクハラもめったにありません。学校教育においても、男子生徒にたいするそういった優遇措置はたくさんあります。たとえば私は男子生徒だったのですが、あるとき面談で担任に「おまえ、数学で女子にまけてるぞ。もっとがんばらないと」といわれたことがあります。この担任が、当時わたしよりも数学の成績がよかった女子生徒との面談で彼女にいったいなにをいったのだろうか、と、いまでもときどきおもいだしてはかんがえこんでしまいます。こういったことは、わたしの担任だけではなく、いろいろなところでみうけられるようです。
 また、たとえば昇給についても、米国の調査ですが、こんなものがあります。これまで女性が男性よりも昇給の機会がないと思われていたところ、じつはそもそも女性は昇給を上司に提案することに消極的だ、という調査結果がでたのです。しかしさらにこの問題についてくわしく調査したところ、部下である「女性」と「男性」の積極性や消極性という男女差ではなく、「上司」の性別と部下の性別のくみあわせによって部下の積極性がある程度左右されていることがわかったのです。つまり、男性の上司に昇給を提案するのは、男性の部下にとってはむずかしくないが、女性の部下にとってはむずかしい。逆に上司が女性の場合は、男性の部下も女性の部下もかわらず昇給を積極的に提案できる、という結果がでたのです。管理職に男性がおおい環境、というだけでも、そこではたらく男性はすこしだけ女性よりも優遇されているのです。しかしその特権をつかって出世したり夢をかなえるのは、非難の対象になるべきではありませんよね。

6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか?

 上にかいたような、性別や、性に関する自己表現、セクシュアリティ、民族、障害、階層など、社会にたくさんある様々な「かたより」がなくなったら、ミスコンをやってもいいとおもいます。もちろん、そんな社会には「ミスコンをやろう」というひとなんていないでしょうけれども。

7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。

・ミスコンをやる大学はレベルがひくく幼稚だが、これまでやってこなかったICUはレベルがたかかった、的な意見。

・ICUでやってもどうせかわいい子なんていないよ、という意見。

・ミスコンにでるような女は女の敵、という意見。

・大学当局によってつぶされて、企画者は処罰されるべき、という意見。

8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。

 今回のミスコン企画が実際に開催されるかどうかは、わたしは個人的にはそこまで重要なことではないとおもっています。なので、「中止」を目標にはしていません。中止されなかったとしても、ICUの学生や教職員、そして学外のひとたちがこの問題について、いままでよりもうんとかんがえてくれることを、個人的な目標にしています。
 そして、中止になるとしても、一切周囲からの強制・脅しなどがないことをのぞみます。たとえばICU祭実行委員会や大学当局が「中止」を決定したり、主催団体に「中止」の決定を強制するような事態は、なにがなんでも阻止すべきです。しかし一方で、個人や団体による「批判」「意見」はおおいにおこなわれてほしいとおもっています。
 むしろ、批判内容に納得しないのであれば、ぜひともミスコンは実施してもらいたいです。納得していないのに「中止」によって対話ややりとりがうやむやになり、ミスコンについての議論がストップしてしまうよりは、ミスコンが実施されたとしてもそのあともずっと議論がつづいていくほうがのぞましいとおもっています。

9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか?

 社会全体であり、とくにICUにこれまでかかわってきたひと全員(わたしふくめ)です。なにに責任があるかといったら、ミスコン企画が可能になるような社会をわたしたちひとりひとりが形成し(つづけ)ていることであり、ICUという場所にいながら、その身近な場所すら変革しようとしてこなかったことに、です。
 
10. ミスコン関係なく、あなたが普段から「よくないなあ」とおもっていることがあったら、おしえてください。

・児童ポルノ規制法の強化と、非実在青少年関連の規制論
・同性愛者のめだつ政治活動における、経済的多様性への関心のなさ
・DV(近親者暴力)支援体制における、身体的暴力への関心の偏重
・在日コリアンにたいする日本政府および日本国民による様々なかたちの暴力
・北京会議以降の日本のフェミニズムの主流化と、それにともなう問題
・難民申請者や外国人労働者の人権にたいする日本政府の無知・無関心・悪意のある無視

 これだけのながい文章になると、同意できないところ、まったくもって「おかしい!」とおもうところなど、たくさんあるとおもいます。どうぞしたのコメント欄やツイッターでご批判おねがいいたします。

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共生ネットによる『セクシュアル・マイノリティへの対応に関する要望書』およびそれにまつわる議論について

 “共生社会をつくる” セクシュアル・マイノリティ支援全国ネットワーク(以下「共生ネット」)が『被災地におけるセクシュアル・マイノリティへの配慮ある対応について要望書を提出しました』という記事で、同団体が緊急災害対策本部および内閣官房長官の枝野幸男さんに提出した旨を報告し、要望書(以下「要望書」)本文の一部を公開しています。

 この要望書に関して、わたしは一般公開よりも一足早く、共生ネットさんから直接連絡を頂いていました。というのも、わたしは今回の地震・津波の報道を目にしてすぐに、LGBTであることによって被災地(特に避難所・仮設住宅生活)においてどのような困難が上乗せさせられるのかについてツイッター上で意見を募り、のちに(2011年03月11日(金) 19:00:00に)『被災地のLGBTが望むこと』というwikiサイトを立ち上げ、様々な立場の方々に意見を書き込んで頂いていました(当時のトップページはこちらです)。当初は出来るだけ早く意見を集約しようと「3月16日(水)の午前9時まで」という意見書き込みの締め切りを設けていました。それは、避難所等のいわゆる「現場」で使える資料(想定していたのは、A4サイズ1枚の、専門用語等を排したわかりやすいガイドラインの作成です)を出来るだけ早くまとめたいという思いでしたが、被災地のLGBT当事者含め様々な方々のご意見を頂戴する中で、「情報内容」「配布形式」「配布対象」「配布時期」の再検討が必要であることを認識し、意見集約・配布を急ぐのではなく、各方面との連絡を取りながら今後数ヶ月以上続くであろう避難所生活・仮設住宅生活を長期的に見越した資料の作成のために、提言内容の精査及び改善を行って行くことにいたしました(これらの変更は3月16日午後10時15分にwiki上で発表致しました)。

 さて、当初より多くの方に意見を書き込んで頂くためにジェンダー・セクシュアルマイノリティ関連のメーリングリストに案内を流したのですが、そのうちの1つが共生ネットさんでした。運営の方からお返事を頂き(12日午後9時14分)、共生ネットでも緊急災害対策本部および内閣官房長官宛の要望書を作成中である旨教えて頂きました。また、その際『被災地のLGBTが望むこと』を参考資料としたいとのことで、許可を求められ、了承しました。了承した理由は、緊急災害対策本部および内閣官房長官宛の(のちに、内閣府、NGO会議、関連委員会・省庁にも提出する旨連絡を受けました)要望書を出す「政治要請」としての活動と、『被災地のLGBTが望むこと』で目的としていたガイドライン作成は大きく目標を違えるものですが、共生ネットさんがいずれにせよ政治要請をすると決めているのであれば、多くの人たちが知恵を出し合ってきた『被災地のLGBTが望むこと』の知見を全く提供しないよりは、それを参考にして頂く方がより良いものができると判断してのことです。これによって、政府への申し入れ・当面の政府関係機関への配布は共生ネットさんにお任せし、『被災地のLGBTが望むこと』では継続して意見の集約と提言の改善を行うことにいたしました。

 内容および要望書内の「謝辞」の文面等について共生ネットさんとやり取りを重ね、現在のかたちで合意に至り、共生ネットさんが要望書の提出を行いました。しかし、当初「内閣府、NGO会議、関連委員会・省庁」宛ということであったはずの要望書は、大規模なジェンダー・スタディーズ系のメーリングリスト(他にも媒体はあったかもしれませんが、私の知る限りではメーリングリストのみでした)を通して、また転載・拡散を呼びかける形で、公表されました。要望書をまとめ、文書化し、公表したのは共生ネットさんであり、その責任が一切『被災地のLGBTが望むこと』に書き込みをした人々(わたし自身を含め)に無いことを要望書内「謝辞」において明確にして頂いてはいましたが、要望書内のいくつかの項目は『被災地のLGBTが望むこと』の内容と酷似しているものもあり、wiki上で頂いたコメント(配布・配信の時期や方法に慎重になるべきとの声)を鑑みると、今の時点で要望書全文の転載・拡散を呼びかけることは、そもそも『被災地のLGBTが望むこと』にコメントないし本文書き込みをして下さった方々の意志をないがしろにすることであり、更に、慎重さを求めるコメントにあるような懸念が現実になるのを後押ししてしまうことになると判断し、共生ネットさんに再度ご連絡を差し上げ、当該メーリングリスト上で再度共生ネットさんより「1ページ目にある情報のみ転載・拡散可能」との旨を流して頂けることになり、迅速に対応して頂くことが出来ました。また、共生ネットさんが今回このタイミングでの情報発信を試みた背景にあるお考え、メンバー等の経験、その他につきましてもご説明頂きました。

 わたしは依然、1ページ目のみにせよ、このタイミングでのこの形での情報拡散には賛成は出来ません。また、内容に関しましても、『被災地のLGBTが望むこと』に書き込まれた「『LGBTの代表』である人を置かない」という項目は反映されず、代わりに『災害対策本部は、セクシュアル・マイノリティに関する専門知識や支援経験のある人を登用し、意見を聴取してください』」という項目が入るなど、いわゆるトップダウンの傾向が強まったことには危惧を感じています。しかし要望書はあくまで共生ネットさんの名義ですので、私に出来るのは懸念をお伝えするところまでです。現在は、「全文をインターネットで公表する際に『被災地のLGBTが望むこと』への謝辞文面をどうするか」といったところで継続して話し合いをしています。参考資料としての利用を了承した者の責任として、どういった形が最も望ましいのか、模索しているところです。

 さて、今回この共生ネットさんの要望書に関して、小田中直樹さんという方が個人ブログにて意見を書いています。「【3/21】タイミングの大切さについて。」および「【3/25】「疑似インテリゲンチャ」またはハンパな全能感の哀しみ。」がそれにあたります。これらは、小田中さんの言葉を借りれば「3/17(引用者注:要望書の提出日)というのは、やっぱりまずいと思う」という懸念による、要望書への批判です。その点(タイミングがよくないのではないか、という懸念)だけにおいて言えば、わたしも小田中さんに同意しますし、わたし自身、今回wiki上で様々な人のコメントや書き込みを頂く中で、自分が起こすアクションについて慎重になる必要性を強く感じました。ただ、わたしは、拙速な行動を予定していたことを反省したからと言って、それを踏まえたわたしが「タイミング」に関して最終的に下す決断が本当に正しいものになる確信はありません。その点において、小田中さんにはその「タイミング」を見極める能力があるという想定が小田中さんの批判から見え隠れすることに、危惧を感じます。

 特に気になるのは、「戦時」「戦後」「復興期」およびその段階的発展における「余裕」の変化に関する小田中さんの理解・考察が、そもそも(団体なり地域なり社会なりに)余裕が無くなった時にその重要性が優先順位において押し下げられ、無視されたり切り捨てられたり犠牲にさせられるようなパターンを繰り返し経験してきたセクシュアル・マイノリティの歴史および生活経験を、同様のロジックを用いて再生産するものだと思うからです。このような経験の中、セクシュアル・マイノリティの権利や尊厳を求めることは、往々にして「贅沢」「自己中心的」と言った言葉で非難を受けて来ました。

 小田中さんは次のように言います。

保健室では、残り少ないストーブの灯油を気にしながら、臨月の妊婦さんが震えていました。教室の床にブルーシートを敷いて、老人の皆さんが、どうにかゲットした段ボールのうえで毛布にくるまって寝てました。そういうタイミングで、例えば地元紙があの提言をニュースとして載せたら(ありえなかったと思いますが)「なに言ってんだ、この贅沢者が」になる危険もあったでしょう(まだ「戦後」段階だから、たぶんそんな余裕はなく、大丈夫だったろうとは思いますが)。

3)セクシュアル・マイノリティの健康ニーズについて知識のある医師やカウンセラーを配置してください。
==>どこにいるんだ、そんな人? たしかに仙台にもいるが、自分の避難で精一杯。避難者全体の健康ニーズすら、ボランティアでまわってくるお医者さんのおかげで、どうにかカバーできたのである。それでも、暖房もないなかで、インフルエンザの子供たちが避難していたんだぞ。ぜーたく言うな。

もしも提言するんだったら、まずは「性的少数者」だけではなく、そういう「全体」に想いを馳せて(できれば「思いをはせてからにして」)ほしい・・・それが、ぼくの期待です。もちろん、それはネットワークの「しごと」ではないかもしれませんが、しかし有限のリソースを配分する提言をするのであれば、全体に目を配らないと説得性が減少します。

 「臨月の妊婦」「子供たち」は、(現実にはセクシュアル・マイノリティと無関係ではない人々であるにも関わらず)セクシュアル・マイノリティがそこから周縁化されているような規範に基づく価値体系(ヘテロセクシズム)において保護を受けやすい主体です。小田中さんは、「性的少数者」と「全体」を対置させるレトリックにおいて、「臨月の妊婦」「子供たち」を「全体」の側に、そして「贅沢者」「ぜーたく言う」者を「性的少数者」の側に配置するような典型的なヘテロセクシズムをなぞりつつ、セクシュアル・マイノリティの要望を「説得性が減少」すると評価します。

 しかし、要望書がこのタイミングで提出されたことを原因として「説得」させられなかった人、というのは、(小田中さんが示している限りにおいては)小田中さんご本人のみです。自分が説得させられなかった、納得しなかったという事実を、主語を提言者(共生ネット)に転換することで、あたかも要望書あるいは要望書の提出の手つき(タイミング含む)こそが疑いなく「説得性」の低いものであったかのように再構築するレトリックを実践しています。差別において、明確な差別主義者よりも時に厄介なのは、「私はあなたのような人を差別したりしないんだけど、周囲の人はどうか分からないから、こうしなさい」とアドバイスを寄越すような自称博愛主義者です。「私」が「アドバイス」出来る立場にあると思えること、「私」が「差別したりしない」人かどうかを「私」が決められると思えること、それ自体が特権的な立場にある者の特権であって、その特権の行使をしつつも「差別」の本当の犯人を「私」の外部に配置することは、差別のアウトソーシングです。

 私は、もちろん、個人的には共生ネットの要望書の内容に不備があると思いますし、タイミングや拡散の方針については最善ではなかった、むしろ弊害を引き起こしうるリスクの高いものであったのではないかと思います。その点では、小田中さんと同様の懸念を感じていると言っていいでしょう。しかし、それは、私がそう思っているだけなのかもしれない。共生ネットには東北地方も含め様々な地域の出身者、様々な年齢のメンバー、そして様々な立場を持ち、同様に様々な人々・団体との関わりを持ったメンバーが所属しています。私は、そのような多様な団体が同団体名義で決定した今回の要望書公表に関して、異論はあれど、謙虚にならざるを得ないと認識しています。そして、先に言った通り、「贅沢」「余裕が無い」といった理由によって黙らされ、当然の権利を与えられず、尊厳を踏みにじられて来たセクシュアル・マイノリティの歴史と生活経験に思いを馳せれば、今回の小田中さんの批判における論理の立て方は、たとえその批判内容が社会構成員の大多数にどれだけ妥当だと認められようと(「タイミング」に関してのみであれば、何度も言っている通り、私自身も小田中さんに同意しています)、まぎれもなくヘテロセクシズムに根ざす側面がありますし、また、ヘテロセクシズムをなぞることで、その再生産に寄与してしまうものでもあると思います。

 セクシュアル・マイノリティが「余裕のあるときだけ考慮してもらえる」ような立場に押し込められて来た歴史をともに認識した上で、どのようにしたら今回の要望書のようなアクションがより有効にセクシュアル・マイノリティの権利や尊厳の回復・尊重を実現出来るのか、小田中さん含め、共生ネット含め、わたし含め、様々な立場にある者が考えることが出来ればと思います。

*追記*
 なぜか(設定かな?)言及されてもトラックバックが届かない状態みたいなので、言及してくださった font-da さんのブログへのリンクを貼ります。