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マーティン・ルーサー・キングJr.の引用文とオサマ・ビン・ラディンの死

 オサマ・ビン・ラディンが殺されてまもなく、英語圏で以下の引用文が一気に広がり、5月2日の夜(米国)にはわたしの Facebook のニュースフィード(ツイッターで言うタイムライン)にも既に数個同じものが流れていた。英語ブログでこのことについて書いたらいきなり普段の数倍のアクセスがあったので、この引用文への関心が高い様子が分かると思う。日本語話者のツイッターアカウントにも流れ始めていたので、日本語ブログででも書いておこうと思います。

 引用文の内容は以下の通り。和訳は適当です。

“I mourn the loss of thousands of precious lives, but I will not rejoice in the death of one, not even an enemy. Returning hate for hate multiplies hate, adding deeper darkness to a night already devoid of stars. Darkness cannot drive out darkness: only light can do that. Hate cannot drive out hate: only love can do that.” –Martin Luther King, Jr.

「わたしは、かけがえのない数千の命が失われたことを悼むと同時に、たった一人の死も——たとえそれが敵であっても——喜んだりはしない。嫌悪に嫌悪で返すことは、嫌悪を増大にするだけであり、既に星のない夜に更に暗さを追加するようなものだ。暗黒は暗黒を追いやることはできない。それが出来るのは光だけだ。嫌悪は嫌悪を追いやることはできない。それが出来るのは愛だけだ。」マーティン・ルーサー・キングJr.

 この引用文を初めに見たとき、「MLK(マーティン・ルーサー・キング)が生きてたらそう言うかもしれないけど、オサマ・ビン・ラディンが殺されたという今の文脈で、それをMLKが言うことは適切だろうか」と思った。

 ビン・ラディン関連のウェブページばかりが検索に引っかかるので大変な思いをしてやって見つかったのが、以下のサイトだ。

 全て、今回出回ったMLKの引用文が偽物である、似ている箇所はあるけどMLKの本などにはそんな言葉は無い、という内容だ。MLKの言葉である、という証拠が出ていない現状では、わたしはこの引用文を偽物だととりあえず思うことにした。

 でも、この引用文が偽物であるからといって、単に引用(というか、偽情報の拡散)をやめればいいかというと、そうでもないと思う。この引用文が出回っていること、それが意味すること、それがもたらす効果などは、引用文が本物かどうかとは関係ないのだから。多くの米国市民(その中には「(今のところ)今世紀最大のテロリスト!オサマ・ビン・ラディンの死!」を祝っている人もたくさんいる)にとって、この引用文は命を大切にすることについて考えるきっかけになるだろう。

 けれど、引用文が本物だろうが偽物だろうが、オサマ・ビン・ラディンの死という文脈においてはこの引用文は不適切と言わざるを得ない。

 そもそも、MLKはオサマ・ビン・ラディンを「敵」とみなしただろうか。不利益や酷い差別を受けていた多くの黒人と一緒に黒人市民権運動を通して白人至上主義的な米国社会から権利や尊重を少しずつ勝ち取る運動をしたMLKにとって、「敵」とは一体誰だったのか。

 「”Love is the only force capable of transforming an enemy to a friend” 敵を友人に変えることの出来る唯一の力は、愛である」とMLKは言った。市民権運動の文脈での「敵」は、暴力において優位に立っていた者のことである。であれば、MLKにとっての「敵」とは「白人至上主義者」だったと考えて間違いない。

 「テロとの戦い」という言葉が反ムスリムの政治活動や中東出身者への社会全体の嫌悪を支えるレトリックになっているいま、自分の言葉が(自分のじゃないんだけど、たぶん)「うーん、わたしたちにとってビン・ラディンは敵だけど、死んだのを喜んだりはしないよ」というリベラルな自己表現に使われることをMLKは果たして喜ぶだろうか。「わたしたち」はいったい誰か。もし引用者が「わたしたち」にMLKをも含まれると思っているなら、ひどく間違えていると思う。

 確かにMLKは、「”Returning violence for violence multiplies violence” 暴力に暴力で応酬することは暴力を増大させる」と言った。ここで、1つめの「暴力」をV1と呼び、2つめの「暴力」をV2と呼ぼう。すると、「V1にV2で応酬することは暴力を増大させる」となる。そして、ここでのV1とはいったい誰の暴力だろうか。多くの人は9・11をV1だと思っているらしい。けれど、それは大きな間違いだ。

 世界で起きた様々な暴力の歴史を全て振り返ることは難しいけれど、規模・期間・効果の面で考えると、わたしにはV1は西洋社会(特に米国)がサウジアラビア、イラクその他でやってきた物理的・経済的・社会的暴力(イスラエルを支持していることなども含め)のことであるように思える。9・11は、そもそもV2だったのだ。オサマ・ビン・ラディンとアル・カイダの仲間が行ったのは、「暴力に暴力で応酬すること」だったのだ。もちろん、それに対して2000年代米国や米国に親和的な国家が更なる暴力を引き起こしたことを考えると、MLKの「暴力を増大させる」というのは真実だが。

 もし引用者がMLKのものだったとしても、米国市民がそれを引用する資格は無いと思う。世界で起きている暴力を止めたいと思っている中東の人々によって引用されるべきもののはずだ。もちろんそれは、世界で起きている暴力の責任が中東の人々にあるからかれらが止めるべきだと言っているのではない。MLKの時代においても、MLKの言葉は黒人に向けられていたけれど、実際に暴力をやめるべきだったのは黒人じゃなくて白人至上主義者たちだ。同様に、中東における暴力を米国等西洋国家がやめるべきだというのは当然。

 MLKを引用すること(MLKの言葉ですらないんだけど、たぶん)によって、米国が行っている暴力の責任から個人が逃れることは出来ない。あたかも全ての始まりはオサマ・ビン・ラディンの暴力であったかのような振る舞いでオサマ・ビン・ラディンを「擁護」するのはやめて、米国・英国・日本、そして中東の人々の土地に軍を送った全ての国の責任を追求しなければいけない。なぜなら、わたしたち先進諸国は9・11というV2に対して、V3で応酬したのだから。

*修正*
 MLKは「”Returning violence for violence multiplies violence” 暴力に暴力で応酬することは暴力を増大させる」とは言っていませんでした。「”Returning hate for hate multiplies hate” 嫌悪に嫌悪で応酬することは嫌悪を増大させる」、そして「”violence multiples violence” 暴力は暴力を増大させる」とは言っています(ここをクリックすると本の該当部分が見れます)。この違いによって上で書いたことが無意味になるわけではないですが、引用文の不正確さを指摘する記事で引用ミスしてたんじゃ目も当てられないわオホホ。ごめんなさ〜い。

「日本初の『ゲイ議員』」は「初」じゃない。

 「ちょっとあんた反応遅くない?」と思われそうなので言っておきますが(笑)、英語媒体で “Japan’s first openly gay politician” とか書いてあるのを見つけてすぐに英語ブログで『“An Openly LGBT Politician in Japan!?” Is Not A New Phenomenon』という記事を書いたので、そちらもよかったら合わせてどうぞ。

 で、日本語の媒体ではニューズウィーク誌が書いている。

日本初の「ゲイ議員」が誕生
2011年04月26日(火)18時39分

 統一地方選が終わったが、今回、日本で初めて同性愛者であることを公言する「ゲイ議員」が誕生した。東京・豊島区議の石川大我と中野区議の石坂わたるだ。

 性的少数者であるLGBT(レズビアンやゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の政治家としては、世田谷区議の上川あや(今回3期目の当選)が有名だ。彼女は生物学的な性別と本人が自認する性別が一致しない性同一性障害で、戸籍の性別も男から女に変えている。

 ニューズウィーク日本版は06年、「ゲイ in Japan」という特集を掲載した。「ゲイ人」レイザーラモンが「ふぉ~~」とやっていた頃である。その時に取材をさせてもらったのが石川で、当時は何人かの仲間と一緒に、ピアフレンズというゲイの若者向けの友達作りイベントを開催していた(ピアフレンズは今はNPO法人となり、その輪もずいぶん広がっている)。

 その後、NHKの番組に出演したり、千葉県の人権関係の委員を務めたりと少しずつ活動の場を広げる石川を見て、いつか政治家をめざすのだろうと密かに思っていた。

 しかし、同性愛者を公言して、政治の場に立つことはとても難しいことだと思う。色眼鏡で見られることもあるし、その当事者の権利拡大が第一義なのだろうと思われて支持が広がりにくい面もあるからだ(一般に同性愛者の割合は人口の5%くらいといわれる)。

 政策を訴えるうえで、多くの候補者は自らの経験や立場を強調する。例えば母親であること、介護の場で働いてきたこと、弁護士の経験……。すべて社会生活につながるものだが、これが同性愛者という立場の場合、どうしても「男が好きな男」「女が好きな女」と、いわゆる「性癖」としてとらえられがちだ。

 しかし同性愛をセックスの面からだけ考えるのは間違っている。結婚制度や家族制度という社会の基礎となるさまざまな制度がからんでくる話だし、お年寄りや障害のある人なども含めた広い意味での社会的弱者の問題にもつながる。

 世界的には同性愛を公言している政治家はけっこういる。仏パリのドラノエ市長(男)や独ベルリンのウォーウェライト市長(男)、米テキサス州ヒューストンのパーカー市長(女)、アイスランドのシグルザルドッティル首相(女、国家首脳として初めて同性結婚)などなど。彼らについての話を、ニュースや新聞で見たり読んだりしたことはあるはずだ。

 ところが、今回のゲイ議員誕生についてはあまりニュースになっていないような気がする。社会の変化の象徴として画期的な出来事だと思うのだが。

――編集部・大橋希

 石坂わたるさんや上川あやさんへの言及があるなど、英語媒体に比べてはまだマシ。でも「ゲイ議員」という言葉にものすごい問題が含まれてる。それは後述。

 英語版では PinkPaper.com (“Britain’s leading gay news website“) で Stacey Cosens さんがこんな記事を書いている。ちなみにこの内容は他の英語媒体での石川大我くんネタとほぼ同内容(少なくとも現段階では)。

Japan’s first openly gay politician wins seat
Taiga Ishikawa has become Japan’s first openly gay politician after winning a seat in the Tokyo ward assembly in local elections on Sunday.

Stacey Cosens
Tuesday, 26 April 2011

Taiga Ishikawa has become Japan’s first openly gay politician after winning a seat in the Tokyo ward assembly in local elections on Sunday.

Speaking to AFP he said: “I hope my election victory will help our fellows nationwide to have hope for tomorrow, as many of them cannot accept themselves, feel lonely and isolated and even commit suicide,”

“Many LGBTs, or sexual minorities, realise the fact when they are at elementary and junior high schools, many of which are operated by the municipality,”

“As a ward assembly member, I would like to reinforce support to LGBT children at schools.”

Ishikawa revealed he was gay in his book “Boku No Kareshi Wa Doko Ni Iru” (Where Is My Boyfriend?),”published in 2002.

The Toshima race saw 53 candidates compete for 36 seats.

 「ゲイ」という言葉が「ゲイ男性」を意味する傾向は英語にもあるけれど、日本語においてのそれよりは強くない。日常会話においてレズビアン女性を “gay” と表現することは珍しくない。そんな中、少なくともレズビアンを公表している尾辻かな子さんの存在がある状況で、 “Japan’s first openly gay politician” は明らかに誤報。

 「ゲイ」がレズビアン女性を指すことがほとんど無い日本語においても、この文脈で石川大我さん・石坂わたるさん・上川あやさんが言及されている中で(特に「初のゲイ議員」という、性的指向と政治についての歴史を記録するような記事において(記者も「社会の変化の象徴として画期的な出来事」として報道してるし))尾辻さんへの言及が無いというのは、レズビアン消去だし、歴史の消去。

追記:尾辻かな子さんは当選後にカミングアウトしたので当てはまらない、という(尾辻さんのことを知ってる人はほとんどみんな知ってるような知識をもとにした)意見がネットで出始めてるけれど、(1)だとしても自分が記者だったら尾辻かな子さんに言及するべきだと判断すると思わない? (2)「尾辻さんは当選後カムです( ー`дー´)キリッ」って言うことによってあなたは何を擁護しようとしているのか考えてみて。

 それに、「議員」と “politician” も微妙に違う概念でしょう。議員は任期のあいだだけの職業だけど、 “politician” (政治家)は任期に縛られない概念。 Wikipedia の “politician” 項目には:

A politician or political leader (from Greek “polis”) is an individual who is involved in influencing public policy and decision making. This includes people who hold decision-making positions in government, and people who seek those positions, whether by means of election, coup d’état, appointment, electoral fraud, conquest, right of inheritance (see also: divine right) or other means.

とあるし、日本語の「政治家」項目にも:

現代の日本では、「衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長の職」(国会議員、地方議員、地方首長)は公職選挙法の適用対象となる公職とされ、公職にある者、公職の候補者または候補者となろうとする者が政治家の代表的な存在である。

副知事、副市長、民間人閣僚、政治を志している人(政治活動家)も政治家と呼んで差し支えない。

とある。

 それを考えれば、 “Japan’s first openly gay politician” は恐らく東郷健。 “Japan’s first gay politician” は誰だろうね、クローゼットだったら私たちには知りようがない。「ゲイ議員」という言葉の問題もそこにある。恐らく「ゲイ」自認の政治家・議員はこれまでもたくさんいた。公表しない人ばっかりだっただろうけれども。

 こういう報道のミスは、記者だけが責められるものでもないと思う。というのも、日本語で出回っているネット情報においても大我くんを「初のオープンリーなゲイ政治家」扱いしているものはたくさんあるから。でも記者の仕事というのは自分の手に入れたソースの信憑性を吟味して、読者にとって信頼に足る記事を書くことのはず。

 こういう歴史の消去は、あたかもクィアの存在が政治の世界において何か新しい現象でもあるかのような、ターニングポイントでもあるかのような印象を与えるし、それは同時に「これまでずっと抑圧されていたけど、時代が変わりつつある」という物語を生産・再生産するものであって、問題が大きい。

 で、「初のオープンリーなゲイ政治家」という表現をさっき括弧にくくって紹介したけれど、ボクが今回の大我くんネタ報道のあり方と同様に最近気になっているのが、「オープンリー」という言葉の突然の広まり方。ここ1週間くらい(あるいはもうちょっと前から)「オープンリーな」という言葉がネット上のクィア関係者のあいだで広まっている。

 これは “open” という形容詞(「〜な」「〜だ」「〜い」と訳される品詞)が一度 “openly” という副詞(「〜に」「〜的に」「〜で」と訳される品詞)に変換されたのち、更にそれに日本語の「な」を付けることによって形容動詞(英語では形容詞)にもう一度戻されているという、すごくトリッキーな手順で作られた新しい用語なのだけれど、そのジャパングリッシュの変なエキゾチック感にボクが個人的に感じる違和感はまあ置いておいて、そんなトリッキーな手順をたまたま多くの人が今回一斉に思いついて使い始めたわけじゃないのは明らかだと思う。恐らく何らかの形で候補者あるいは支持者のあいだでオーガナイズされて使用されるようになり、広まったんだろう。

 それは全く構わない。言語は日々変わっていくものだし、言語資源が人々の世界観を反映し、また生成して行くものであるのは当然の、不可避の出来事だから。でもこのタイミングで「オープンリーな」という言葉が一気に広がったことの背景にはどんな効果が意図されていたのか、そして実際にどんな効果があったのかは、考える必要があると思う。

 「オープンなゲイ」(ゲイだけの話じゃないけど)という言葉ではなく、「オープンリーなゲイ」あるいは「オープンリー・ゲイ」という言葉を使うことのメリットは何だったのだろう。1つには、「オープン」という言葉が(既に「開店中」みたいな強い意味が存在する日本語において)「クローゼットではない」という意味として通じるかどうか分からないので、あえてちょっと変えることで「開店中」とか他の意味に誤解されるのを避ける、という効果があると思う。

 2つめに、「オープン」という言葉が既に多くの日本語話者にとって馴染みのある響きなので、そこで意味が切れることが明らかだから、「オープン・ゲイ」「オープンなゲイ」と言ったときに、残りの部分、つまり「ゲイ」の部分が聞き手にとって明確に聞き取れてしまう。逆に「オープンリー・ゲイ」だと、英語が多少分かる人でなければ、どこに切れ目があるのかも分からないと思う。「オープン・リーゲイ」という切れ目があると思う人も多いと思う。「オープン・リーゲー」とか「オープン・リーグ A」と思うかも。「サッカーの試合か何か?」みたいな。そうすると、英語が多少分かる人以外は「ゲイ」の話、つまり性的指向の話だとは分からずにこの言葉を受け流してしまうかもしれない。意図されてはいなくとも、そういう効果はあると思う。

 3つめに、「オープンリー」という新しい言葉を使うことで、そしてそれをツイッターやmixi等のネットを通して広めて行くことで、今回の政治家三名の選挙活動や当選が、何かとんでもなく新しい現象であるかのような、つまり前述の報道のあり方と呼応する形で、「日本のクィア政治の歴史」のターニングポイントを人工的に印象操作で作り出してしまう効果があると思う。

 既に多くのクィア系のツイッターアカウント(個人・団体)で「オープンリー・ゲイ」「オープンリーなゲイ」という言葉は多用されていて、それはもはや、何かひとりひとりノルマでも課せられているのかしらと疑ってしまうほど頻繁に使われている。それが、ボクにはすごく怖い。

 最後に、ちょっとこの話題とは関係ないのだけれど、上で紹介した PinkPaper.com という「ゲイ・ニュース・サイト」にコメントしようとしたときにアカウント登録を求められたのだけれど、そこに「タイトル」という項目があって、これが必須項目だった。「タイトル」というのは、ちょっと日本語でなんと呼ばれるものなのか分からないのだけれど、 Mr. とか Mrs. とか Miss とか Prof. とかの、肩書きや性別、婚姻状況を表す、姓名の直前に付けるアレです。

 で、 PinkPaper.com 、 “Mr. / Mrs. / Miss / Rev. / Prof.” あと何だったか忘れちゃったけど、そういう選択肢しか用意していない。つまり、 Prof. (教授) や Rev. (師 – 聖職者用) などプロフェッショナルな職業に就いていない人間はジェンダー化されたタイトルを選ばないとユーザー登録が出来ず、コメントも残せないという設定になっている。「ゲイ・ニュース・サイト」だろう? とびっくりした。