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わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム【再掲載】

この記事は2010年1月20日に WAN (Women’s Action Network) のサイトに掲載された「【ライブ中継への反響・その1】わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」という記事の全文です。[元記事 @WAN]

本文

「一般の人にわかりやすい言葉で話して下さい」と言われる経験は、私たちフェミニストには日常茶飯事だ。そう言われるたびに私はその言葉に憤りを感じ、口をつぐむ。時には相手に噛み付くこともあるけれど、そこまでして相手に分かってほしいと思っているかというとそうでもない。何が頭に来るのかと言ったら、それはフェミニズムに「わかりやすさ」を求め、「わかりやすくないなら私はそれに賛同しないぞ」と、言外にほのめかす態度なのだと思う。そしてまた、自分がわからないということを「一般の人」という安易なカテゴリーを使って、あたかもかれらを代弁しているかのような振る舞いで当然のように開き直っている様子も、苦手だ。「一般の人」とはいったい、誰のことを言っているのだろう。

「主体がどうとかいう話には興味がないんですよね」とか、「そういう議論に何か意味があるんですか?」とか、あるいは「それは一般の女性の役に立たない理論だと思います」とか、そういうことを言われると、抽象的な議論はどこかに隠居して細々とやっていきたいものだわ、と思ってしまうのだけれど、しかしそれでも私にとってのフェミニズムは、誰かにとって「興味がない」ものだったり、「何」も「意味が」ないようなものだったり、「一般の女性」とやらにとって「役に立たない」ものであったとしても、私の人生や家族、友人の人生にとって重要だと思ってやっていることだ。たとえそれが他のフェミニストから拒絶されたとしても。

私が常日頃からこういうことを言われるのは、私にとってフェミニズムとクィア理論が密接に結びついているからかもしれない。フェミニズムは必ずしも異性愛女性のことだけを考える思想ではないし、クィア理論は必ずしも同性愛者やトランスジェンダーのことだけを考える思想ではない。両者の射程は思ったよりも広く、そして互いに裏切りつつ、協力し合い、反目しつつ、アイディアを盗み合う。その両方をきちんと分けられない私にとって、「一般の女性」や「一般の人」という言葉はほとんど意味を持たない。なぜならそういう言葉が発せられるとき、ほとんどの場合、異性愛の、貧困ではない、障害のない、人種・民族的にマジョリティの、先進国の人を指しているからだ。私のフェミニズムはそういう人たちの利益のためにあるのではないし、そういう人たちに「わかりやすい」言葉で説明するような義理も、動機も一切ない。むしろある種のマジョリティを「一般」というレトリックで欺瞞的に表現するその態度こそ、私が批判したいと常日頃思っているようなイデオロギーだ。

フェミニズムは、あるいは、私が信じ、惹かれているタイプのフェミニズムは、「一般」に迎合したりしない。これまでも私の尊敬するフェミニストたちは、一般を挑発するような言葉を作り出したり、反感を買いやすい主張やパフォーマンスをしたり、そして案の定強い反発を受けて来た。その1つ1つのやり方や戦略、その成果に関しては評価が分かれる所だし、私も必ずしもそれら全てに同意するわけではないが、それらの行動の背後にある情熱のようなものには敬意を表したいと思っている。

その点で「おまんこシスターズ」という言葉を打ち出した上野千鶴子氏、多くのフェミニストに総スカンを食らってもテレビで話し続け、世間から罵倒や攻撃を受けて来た田嶋陽子氏、社会に既に受け入れられている言語をずらす実践として “womyn” や “grrl” といった言葉を積極的に使って来たアメリカのフェミニスト(の一部)など、多くのフェミニストの態度を、その評価は横に置いておくにしても、私は尊敬する。

しかし先日の WAN x ジェンダーコロキアムの共催イベント、「男(の子)に生きる道はあるか?」において、私はまたもや、絶望することになった。「男性に通じるフェミニズム」を提示したい、「男子に楽になってもらいたい」という澁谷知美氏、「男性への理解と愛情を基に」本を書き、それに「反発が驚く程なかった」ということを嬉しそうに語る両氏。

もちろん世の中を変えようというときに、特に社会政策を変えようというときには、多くの人の賛同を得る必要がある。しかしフェミニズムが容易に「一般」に受け入れられるとき、それは必ずしもフェミニズムの思想の発展や広がり、普及を意味するとは限らない。「一般」受けする思想には、常に危険が伴う。それはジュディス・バトラーがお茶の水女子大学に講演にやって来たときに、彼女の文章は難解でエリート主義に陥っているのではないかという質問に対する返答として、抵抗なしに受け入れられる言説はつまり現状既に社会に織り込み済みの言説であって、それでは理解可能性の領域の拡大を狙うことはできないと言っていたこととも共鳴する。

私もまた、2008年に NWEC でワークショップを開く際、前日の打ち合わせにたまたま同席した方に言われたことがある。「そんなに難解な議論をしたのでは、理解を得られない。理解されたいのでしょう? だったらもっと一般向けの話し方をしなくては」と。

確かに、単純なことをわざわざ言葉をこねくり回して難解にする必要はないし、そんなパフォーマンスは私も嫌いだ。しかし、そもそも「一般的」とされるような現存の言語を用いて語ることは、正にその言語が同性愛嫌悪的でトランス嫌悪的で女性蔑視的であるときに、ほとんど不可能なのである。その点において私は既にある程度語る言葉を制限されているのであり、更にそれを「一般向け」に翻訳せよというのは、二重の暴力を行使することを意味する。

過去十数年のあいだクィア運動の中で培われて来た言語、更に言えば過去1世紀(あるいはそれ以上)のあいだフェミニストたちやゲイ・レズビアン運動の担い手が紡ぎだして来た言語、黒人解放運動や障害者運動がなんとかして、あらゆる言葉をつなぎ合わせ、作り出し、また本来の意味から引き剥がし自らの言葉に変えて来た言語。それらは、私たちが日常を生き延びるために、私たち自身の人生をよりよく理解し、よりよいものにするために、日々の実践の中から生み出された言語である。私は、あらゆる理論はそのように作り出されたと思うし、またそうではない理論には魅力を感じない。わかりにくいフェミニズムこそ、私の理解可能性の領域を広げてくれるし、社会の変化への希望を感じさせられる。

だが、澁谷氏の、そして時に上野氏の今回のイベントにおける発言には、絶望しか感じられなかった。「女子も辛いが、男子も辛い」という澁谷氏の発言は(それが実際に現実を反映していることは確かだが)あまりに迎合的だと思うし、「女というところから出発して、ジェンダー規範に縛られた人間を対象にし、更にそれを男にもおろしていく」実践としての『平成オトコ塾』も、その実証研究としての評価は横に置いて言えば、なぜそんなことをする気になったのかと不思議でしかたがない。それは、上野氏の「男性への愛」という話にも感じたことだが、何よりも「なぜ、フェミニズムがずっと批判し、拒否すべく尽力して来たような『母』の位置を、自ら体現してしまっているのだろう」という疑問が頭をよぎる。

上野氏は他にも、フェミニズムを「おばさん」の言説であるとし、男受けのする「娘さん」を降りて「おばさん」になる実践とフェミニズムを接続している。しかしそもそも「娘さん maiden 」と「おばさん crone 」とを分けるジェンダー規範を批判して来たのは、紛うことなきフェミニズムではなかったか。フェミニズムの歴史的蓄積はどこに行ってしまったのか。

新春企画ということで大々的に宣伝もして、ネット中継までして、録画したものをアップロードまでして、これが2010年段階の日本のフェミニズムの集大成なのかと思うと、絶望しか感じられないのは仕方がない。ただ、これが日本のフェミニズムを代表するわけではない、代表させてはならないということを私たちは肝に銘じて、フェミニズムの実践をして行かなければならないだろう。絶望ばかりもしていられないのだ。

上の記事を WAN サイトに投稿しようと思ったきっかけ

[元記事 @フェミニズムの歴史と理論]

先日 WAN (Women’s Action Network) の「よみもの」欄に寄稿したところ、早速受理され、今日既に掲載してもらっているようだ(すんげー早い!)。タイトルは「わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」というもので、 1/13 に行われたジェンダーコロキアムと WAN の共催イベント『男(の子)に生きる道はあるか : 新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美』の映像を観ての感想を書いた文章。ちなみにその映像はここをクリックするとアクセス出来ます

よろしかったら他の方が書いている感想もどうぞ。(順番はアップされた順、たぶん)

そもそもボクは WAN の問題については積極的にネット上で何か言うつもりはなく、個人的なブログにしろこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにしろ、一切文章をアップするつもりはなかった。それは、そもそも動画の内容が脳天を突き破るような、あるいはじっくりと時間をかけて肉を溶かす猛毒のような、さもなくばその両方であり、書く気力も出ない状態だったから。 tummygirl さんが先陣を切ってブログ記事にしているのを横目に、「あぁ偉いなあ。そしていい文章だなあ」と涙ぐむだけのあたし。

そんなときに山口智美さんに「っていうかマサキくんって WAN の呼びかけ人? 賛同者? だったよねー」と言われて、固まる。「えー!? あーーー、そうだったかもー!」くらいの記憶力(<研究者志望として、あるいはそれ以前に運動に携わるものとしてダメ)で、見事に忘れていた。ネット上を検索しても当時の呼びかけ人のリストが見つからず、でも確かに智美さんはリストにボクの名前を見たと言うし、呼びかけ人にだけ配信されて来たはずの準備会MLというものも、しっかりメールボックスに届いていた・・・。

「全くもう、バカだなぁ WAN は(笑)」くらいで、後はもうスルーしようと思っていたのに、何と自分が呼びかけ人として参加している団体だったなんて! という驚き、というかもはやショックで、これはもう、呼びかけ人として賛同した者の責任として何かしないわけにはいかないだろうと思った。

今でもボクは WAN はつぶれればいいとか破綻しちゃえばいいとか、あるいは存在を忘れられてしまえばいい(プレゼンスが下がればいい)とか、そういう風には思っていない。使い方次第でいかようにも使えると思うし、リソースが集まっているのはある意味では有益なこともあるだろう。その分例えば、アマゾンのアフィリエイトを使っている B-WAN のように、リソースをこぎれいにスマートにまとめられるシステムを利用しているからこそ、そこからこぼれ落ちる情報(アマゾンに無い本とか、自費出版の冊子とか)が更に周縁化されて行き、作り手も減るという問題はあるけれど。

とにかく当時呼びかけ人になった時のスタンスと、今のそれは、大して変わらない。 WAN に日本のフェミニズム、あるいは日本語話者による/対象のフェミニズムを代表させてはならないし、そういう意味で WAN が大きくなって影響力を持つようになることは避けたい。けれどネットを検索すればとりあえず WAN くらいはひっかかるよ、という程度に、つまりとりあえずのきっかけとして、とっかかりとして WAN に出会う、という程度になって欲しいという希望はあるし、同時に、昔からフェミニズムに関わって来た人たちにとっても、より「使える」リソースになって欲しいとも思っている。ボク自身が今回 WAN に投稿したのは、 WAN におけるそういうリソース作りへの関与を怠って来た自分に対する反省の意味も強い。

もちろん何が「使える」リソースで何が「使えない」リソースなのかというのは議論の余地があるけれど、それはボクが信じる限りのところを、口を挟んで行く(投稿したり、意見したり?というところで)という方法しかないかなと思っている。だからこそ今回は、例えば「 WAN のやったイベントは、異性愛中心主義的だった!」と思っても、呼びかけ人であるボクは外部のブログからそれを批判することは出来ないと感じた。やるなら内部で、つまり WAN のウェブサイト上でやるべきなのだし、恐らくこれまでもやるべきだったのだ。

「カムアウトできる」「カムアウトできない」というレトリックの問題

この記事は、インデペンデント・マガジン Pe=Po vol.1 に掲載されたものの全文です。ネットからも購入出来ますので、他の記事も気になるという方はどうぞ買ってみて下さい。

「親にカムアウトしたいけどまだ経済的に独立もしていないし……」、「友達はみんな知ってるけど、会社では絶対にカムアウトなんて出来ない……」、「同級生の数人にはカムアウトしてるけど、信頼出来る人だけ。他の人には絶対に言えない」などなど、カミングアウトにまつわるエピソードはボクたちのコミュニティに溢れている。それに対して老婆心を働かせたゲイやレズビアン、バイがこう言う。「誰彼構わず言う必要はない。自分がいいと思った相手に、いいと思ったときにだけカムアウトすればいいんじゃない? 人それぞれ事情があるしね」と。

もちろん老婆たちは本当に相手のことを思って言っているのだろう。しかしここで語られる「事情」とは何だろう。保守的な町に住んでいること? フォビアに満ちた職場で働いていること? 学校という閉塞的な場所で生きていること? 長男であること? 既婚者主婦であること? その事情を無視してカムアウトしたらどうなるだろうか。親から見放されたり、解雇されたり、いじめを受けたり、町を追い出されたり、離婚されたりする? 確かにその可能性はあるし、それを恐れてカムアウトしない人を蔑んだり「度胸がない」と見下したりすることはバカなことだと思う。だから当然「カムアウトしなさい」とか「カムアウトできないなんて、自分に自信がなさすぎる」とか「もっとみんながカムアウトすれば世界は変わるのに、しない人がいるからダメなんだ」とか、そういう、「事情」に思慮を働かせられない人の発言には辟易する。その点ではボクも老婆と同じ意見だ。

しかしボクが言いたいのは、「事情があるのだから仕方ないよね」ということではない。むしろこの記事でボクが批判の対象としているのは、正にそういう「しょうがないよ」みたいな上から目線の同情的な発言だ。

ボクは、クィアにとっての「事情」とは、強制異性愛社会に住んでいることや生物学的な性別に〈わたし〉の振る舞いやアイデンティティを追従させなければ制裁を受けるような状況だと思っている。だから「黙っていればヘテロだと思われる社会」なんて本当に嫌で嫌でしょうがないし、どうにかなって欲しいと思っている。しかし同時に、「黙っていればゲイだと思われる社会」も嫌だ。それはまた一つのカテゴリーであって、非ヘテロ男性という「ジェンダー・セクシュアリティの秩序の中では理解しがたい存在」を簡単に理解しやすくするマジック・ワードでしかない。しかもそのカテゴリーに乗った所で差別は全然残っているし、二級市民として扱われるだけだ。そんな詐欺みたいなカテゴリーに誰が入るか、と思う。そもそも「ゲイ」なんてボク自身の内側から出て来た言葉でもなければ、外からやって来てボクが快く迎え入れた言葉でもない。(*1) 「男」だって「アジア人」だって、世界はボクに選ぶ権利も与えてくれなかったじゃないか。「黙っていれば男だと思われる社会」も出来ることなら勘弁してもらいたいし(*2)、「ゲイだって言ってるのに『アジア人ゲイ』としかボクを扱ってくれない社会」なんて死ぬほど嫌だ。

つまり究極的に言えば、「アイデンティティを想定・強制されること」それ自体が生活に差し迫ってくる問題としてボクに嫌な思いをさせている「事情」なんだ。そんなボクにとって、「ゲイ」という言葉が広まっており人々もある程度受け入れる体制が出来ているような空間にいることは、必ずしも嬉しい経験じゃない。人は「ゲイなんですか?」とか「オカマちゃんですか?」と聞いて来るし、一言も言っていないのに「え、だってあなたゲイでしょ?」とか言われたり、言わないでいると勝手に邪推されたり噂されたりする。すごくカムアウトを求められている感じだ。「お前のセクシュアリティを言語化せよ、私たちに分かる語彙でシンプルに説明せよ」という圧力を感じてしまう。それはきっと、「ゲイ」という語彙が共有されているコミュニティだからこそ、むしろそこが重力の場みたいにボクを引きずり込もうとしてくるような、そういう感じ。

これがボクにとっての「事情」だ。つまり「あぁ、あなたは(ヘテロではなく)ゲイなのね」、「あぁ、あなたは(日本人ではなく)在日コリアンなのね」、「あぁ、あなたは(健常者ではなく)障害者なのね」、「あぁ、あなたは(白人ではなく)有色人種なのね」という分け方そのものが気に食わないのだ。相手の用意したカテゴリーに乗っかること、そしてそれに乗っからないと「差別されてる人だから、優しくしてあげよう」とすら思ってもらえないという脅迫めいたアイデンティティ要請がものすごくうるさい。そもそもそういうカテゴリー分けの仕方・枠組み自体が西洋近代的な思想の影響を受けたものであって、少なくともボクはそんなものを受け入れた覚えはない(*3)。「自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、隠さざるをえないような状況にしている、強制異性愛社会」と Macska さんがブログで言っているが(*4)、更に言えば、強制異性愛を含む(西洋近代的)文化的規範は、自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、〈決定し、包み隠さず告白すること〉を要求するような(そして、そうしない限り差別され続けるような)状況も同時に作り出しているのだ。

だから、そういう事情に辟易しているボクは、「カムアウトしないとまともに取り扱ってもらえない」ような社会やコミュニティも、すごく嫌い。それは「カムアウトできない社会・コミュニティ」と言われるような場所と同じくらいにボクを引き裂く。ゲイだと言ったら不平等な扱いを受ける社会と、ゲイだと言わないと平等の恩恵を受けられない社会って、単なる強制異性愛社会の裏表じゃないか。カムアウトしないと事態が解決に向かわないという状況は立派な「強制異性愛社会という『事情』」だ。そういう「事情」のある人は、カムアウトだってなんだってしたらいいと思う。カムアウト実践を選ぶことも、カムアウトしないことを選ぶことも、両方とも各人がそれぞれ自分の状況を考えて「このフォビックな社会の中ではマシ」な方向へと進むための生き延びる道でしかないのだもの(*5)。

「カムアウトしない方がいい場合もある」という主張への反論として「それはホモフォビックな社会の中ではマシというだけのことでしょ」と言う人もいるが、そんなこと言ったら「カムアウトした方がいい」という状況だって、「ホモフォビックな社会の中ではマシというだけ」だ。社会がホモフォビックじゃなかったら、そもそもカムアウトする必要だってないし、クローゼットに入る必要だってないのだから。罠みたいなもんだ。その罠にはめられているボクたちは、当然、カムアウトしたって、しなくたって、いい。どちらの選択肢が「よりよい」のかというのは、その人の周りの「事情」のあり方によって変わってくるはずで、その「事情」というのは「カムアウトできる」「カムアウトできない」という〈可能性〉のレトリックで説明されるべきものではないと思う。「カムアウトすることの方がカムアウトしないことよりも本人の利益を増やす」と判断できる状態だったらカムアウトする方がいいだろうし、逆であればカムアウトしない方がいいに決まっている(そんな判断はおそらく多くの人が自分で日々行っていることであって、ボクがこんなところでいちいち説明するほどのことでもないのだけれど)。とにかく、「カムアウトしない」ということが「できない」という〈可能性〉のレトリックで説明されることには、ボクは全然賛成できない。

「カムアウトすることで得られるものが失うもののよりも多い社会・コミュニティ」と「カムアウトしないことで得られるものが失うものよりも多い社会・コミュニティ」というのは両方存在するし、時期や集団の大きさ、年齢層、階級やミクロなレベルでの人間関係、そしてそれらのこれまでの歴史的変遷によっても状況は異なる。そしてその両方とも強制異性愛の異なるバージョンの上に成り立っている状況でしかない。どちらの方がいいとか悪いとかは普遍的な判断が出来ないし、自分にとってどちらの方がマシかしか言えない。あるときある場所ではカムアウトした方が「マシ」かもしれないし、その次の日に違う人たちと時間を過ごしているときはしない方が「マシ」かもしれない(*6)。そのどっちの時間が本人にとって喜ばしい時間になるかは、本人が事後的に判断することであって、議論をする人間によって事前に予想が立てられるものではない。

ましてや、「運動全体のためにはどちらが好ましいか」という疑問には、回答などないはずだ。そもそも問い自体が強制異性愛社会の1つのバージョンの枠組みに則ってしまっていて、回答はコインの裏表にしかなり得ない。そもそも「運動全体」の利益とは、いったい誰の利益なのだろう。もちろん「現在この社会・コミュニティでは人はセクシュアリティのカテゴリーに入れられてしまうのであって、それを拒否したら生きては行けないし、権利も何一つ手に入らない。だからカムアウトする利益の方が多いのだ」という主張が持つ正当性には納得が行く。しかしそれはあくまでその地域、その時代にその文化・政治・宗教・道徳的背景があるから言えるだけの話であって(更に言えば、それはある程度西洋近代的で先進国的で都会的でエリート的な事情だとボクは思う)、「他の場所でもそのような状況になるべきだ。まだそうなっていない地域、つまりカムアウトしない利益の方が大きい地域は、遅れていて、クィアにとっては生きづらいはず。だから変わるべきだ」とは言えない。カムアウトしなくても(一部の)規範から外れて生活することは出来るし、そういう人がいることを周りも当然のように知っていたりする。ただ、それに名前を付けないだけだ。名前を付けたら「差別対象」として、あるいは「差別対象だから、差別してはいけない人たち」として新たに周囲の人たちの目に現前してしまうことになって、それまであった「生きやすさ」が消えてしまうかもしれない。カムアウトしない方が解放的な可能性もあるんだ。

また、カムアウトする利益の方がしない利益よりも大きいように見える社会・コミュニティにおいても、そこに住む人々全員にとってそうであるとは限らないし、あるいは、そこで語られる「利益」自体を望んでいないとか、カムアウトすることによって失われるものを失いたくないとか、様々な理由でクローゼットを貫く人もいるだろう。しかし彼らのそれぞれの状況を「事情」と呼び、彼らのその判断を「苦渋の決断」であるかのように語るのは、あたかも自分たちには「カムアウトすることの利益の方が大きい」という「事情」(!)がないかのように振る舞い、自分たちの方が他の人たちよりも「自由な判断」(!)が出来ているかのように語ることだ。

クローゼットでいることは権利ではない、というサラ・シュルマンさんの文章が前述の Macska さんのブログで紹介されていた。クローゼットでいないと暴力を受けたり解雇されたり社会生活を送れなくなったりする社会では、そう、クローゼットは「不自由」だ。自分が非ヘテロであることを言葉に出すことが出来ないのは、不自由極まりない。しかしボクが欲しいのはカミングアウト出来る社会ではない。ボクが欲しいのは、非へテロであることを言葉に出す必要もないほどクィアな世界であって、そこではもし口に出しても「カミングアウトした」などと仰々しく取りざたされたりしないし、「あたし明日数学のテストなんだよね」「あ、そ」くらいにしか関心を払われたりもしないだろう。そう考えると、一方で、カミングアウトだって権利ではない、不自由だ。なぜ言わなければいけないのか。なぜ「カミングアウト」などと大げさに、あたかも世紀の大告白かのように扱われなければいけないのか。カミングアウトしなければ生きて行けないとは、なんて不自由なんだろう。

*1 ボクは自分の性に関する事柄を言葉で説明したりすることを既に(複雑すぎるから)あきらめているので、「ゲイ」という言葉に単なる文化的なスタイル以上のものを求めていないのだもの。「ゲイ」とはボクにとって一つの生き方であって、振る舞い方であって、コード。「男が男に惹かれること」とか「男と男がセックスすること」と「ゲイ」という言葉は少しは関連しているかもしれないけれど、それは「若者であること」と「ケータイを持っていること」くらいの関連性にしか感じられない。

*2 現代社会で「男」と扱われることは「女」に比べて得することばかりなのだけれど、だからと言って気持ちよく「はい、男です」と言えるわけじゃない。

*3 補足しておくと、ここで「西洋近代的」と言っているのは別に「西洋の近代に特有のものであって、それ以外のところには存在しない」という意味ではなく、「西洋近代のイデオロギーに関係することがら」というくらいの意味。つまり、西洋と呼ばれる地域にだって存在しないかもしれないし、東洋だろうがどこだろうが存在するかもしれないようなものであって、日本の中にだってものすごくいっぱいある。例えばアメリカのモンタナ州にはあんまりないかもしれないけど、日本の中野区にはがっつりあるかもしれないし、ある宗教のコミュニティの中ではあんまりないかもしれないけど、ある人種コミュニティのなかにはがっつりあるかもしれない、みたいな。

*4 『カムアウトをしない「自由」はない。クロゼットは「権利」ではない。』「*minx* [macska dot org in exile]」 http://d.hatena.ne.jp/macska/20090818/p1. retrieved September 27, 2009.

*5 もちろん時にはアクティビズム的に、戦略的にカミングアウトを選択することもあるけれど。

*6 例えばボクの知り合いに50代の人がいるのだけれど、彼は自身をゲイだともオカマだとも女性だとも言っていない。彼の周囲の人も誰もそれを言葉には出さないし、質問もしないが、ほとんどの人が彼が「女性的な振る舞いをして、男性と性愛関係を結ぶ人」であることを知っている。彼は周囲の人たちと男女問わず仲良く近所的なコミュニティを築いており、飲みに行ったり旅行に行ったり近所の集まりに出たりしている。他にも、同性婚とかパートナーシップ法には反対だけど、レズビアンとしか思えない人が親戚の集まりにパートナーを連れてきてもみんながそれを当然だと思っている、という状況とか。

【ICUのミスコンに反対するひとに10の質問】

長いです。めっっっっちゃ、長いです。先に謝っときます。

 6月3日、ことし10月末にICU(国際基督教大学)の学園祭(ICU祭)においてミスコンが開催されるという情報が、ツイッター上でながれた(ICU-CP9[主催団体]、2011年ICU祭実行委員会 企画調整局ICU祭実行委員会企画調整局サイト)。それからというもの、ツイッター上では様々な見解がいりみだれ、このイベントの開催に反対するわたしもいろいろな発言をしてきた。それらのツイートは togetter まとめ『ICU(国際基督教大学)でミスコン!?』にまとめることにし、ほかのひとの協力をえながら、2000以上のツイートを収集してきた。

 そのなかでわかったことは、意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していないこと、そして意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していたことだ。つまり、賛成派も反対派も、おもったよりもおおかった。「どうでもいいじゃん」というひとはそもそもあんまりツイートでミスコンにふれない、ということかもしれないけれど、割合としてだけでなく、単純に数として、反対派も賛成派もおおくのツイートを発信していた。

 そこで発信されたツイートには様々な論点がふくまれていたし、たとえばミスコンが企業とむすびついていることがおおいという指摘など、わたし自身がきづいていなかった論点もいくつかあった。反対派・賛成派のツイートをいくつもよんでいるうちに、賛成派にも多様な理由があり、反対派にも多様な理由があるのだなあということもわかった。わたし自身、反対派を表明するひとのツイートには、どうしても賛成できないものもみかけた。

 もちろん、反対するひとはみんなおなじ理由で反対しなければいけないわけではないし、ある理由がほかの理由よりもすぐれているとも断定はできない。でも、「おなじ反対派だから」という理由で批判をさけることはおかしいとおもうし、わたしをふくめみんなの人生は「ミスコン」、ましてや「ICUのミスコン」だけでうめつくされているわけでもない。ことしのICUのミスコンが中止になろうと、あるいは世界中のミスコンがすべてなくなろうと、それ以外のところでわたしたちは様々な性の問題に直面するし、性以外の様々な問題にも直面する。「ミスコンに反対する」という1点において団結し、そのなかにあるちがいをにくちをつぐむのなら、それは、そういった「ほかの問題」を容認することになってしまうだろう。

 というわけで、反対派にもいろいろな立場のひとがいるだろうとおもい、「ICUのミスコンに反対するひとに10の質問」というのをつくってみた。たぶんいろいろな回答があるだろうとおもう。「反対派」といえども、それぞれちがうおもいがあって反対しているんだ、ということが、これによってすこしだけあきらかになればいいな、とおもっている。
 質問がわるいとか、10こじゃたりない、という指摘もあるとおもうけれど、とりあえずわたしがおもいつくかぎりで、論点となっているものをえらんでみた。(というか、わたしがちゃんと「反対派」として明確にしておきたい論点をえらんだので、わたしの関心にかなりかたよっているとおもいますm(_ _)m)

ICUのミスコンに反対するひとに10の質問

1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど)

2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。

3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか?

4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか?

5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか?

6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか?

7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。

8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。

9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか?

10. ミスコン関係なく、あなたが普段から「よくないなあ」とおもっていることがあったら、おしえてください。

 こういう「〜への10の質問」のたぐいは、わたしが回答するときにはいつも「質問がわるい!」とか「重要なことがぜんぜんふくまれてない!」とかおもってしまうのだけれど、きっとほかのひとからしたらこれもそういうふうにおもわれるかもしれない。というわけで、改変は大歓迎です。

わたしの回答

 「ICUのミスコン企画に反対する会」Facebookページグループにさそわれて、いまは管理人としてもうごいているのだけど、この会はわたしやもうひとりの管理人の個人の意見をだす場所ではなく、情報や意見ををやりとりする場所、まとまってなにかやりたいひとがきっかけにできる場所として運営している。共同声明を十数名の呼びかけ人の名義でつくったけれど、これはあくまで呼びかけ人の名義であり、「反対する会」全体の意見を代表するものではない。なので、個人的な意見はツイッターでのみ発信してきた。というわけで、以下のわたしの回答も、「反対する会」や「反対派全体」の意見を代表するものではないことを、つよく、言っておきます。

1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど)

 はい。

2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。

 ひとつに、「よい女性像」が「よい男性像」にくらべて多様性にとぼしく、しかも実現するのが比較的むずかしいということがあります。たとえば男性であれば「愛想はわるいけど、正直もの」とか「ブサイクだけど思いやりがある」ような男性が「よい男性像」としてえがかれることがありますが、女性はなかなか「だけど」とおもってもらえません。
 すこしでもわるい(とされる)ところがあると、いきなり「ダメな女」あつかいをうけたりします。「家事がへたくそ」「こどもがきらい」「ふとっている」「浮気している」「下品である」「ブスである」「貧乏くさい」「くちうるさい」「不妊症である」「レズビアンである」「障害をもっている」などは、それだけで「魅力的な女性」にはなれないときめつけられる(ことのある)理由のほんのいくつかの例です。もちろん最近は「よい女性像」の数もふえてきています。それでもいまだに、世のなかは男性にたいして比較的あまい評価をくだしているのが現状だとおもいます。
 また、「よい女性像」にちかづくための要素には、なぜか不断の努力を必要とするものが比較的「よい男性像」のそれよりも、おおいです。体型も、家事も、子そだても、理想どおりにやっているとおもわれるためには、ほぼ毎日の努力が必要となります。でも男性は「正直なことを言う」「思いやりのある態度をとる」「なにか危険なことがおきたときに、たすける」「いざというとき、たよりになる」など、単発の行動をときどきおこなうだけでも「いい男性像」をアピールすることに成功したりします(もちろん失敗することもあるでしょうけど、そういう単発のなにかで女性が「いい女性」と評価されることはなかなかありません)。
 また、「よい女性像」の条件のひとつである「みためがうつくしい」にしても、その価値観を毎年うまく誘導して商売にしているファッション業界・化粧品業界・雑誌業界などのえらいひとたちがほとんど男性であることは、つまり世のなかにひろまっている「よい女性像」が男性がかんがえる「よい女性像」につよく影響をうけていることを意味します。それは、「よい女性像」が多様になり、達成が容易になることを阻んでいるひとつの原因だとおもいます。
 ミスコンは、そういった世にひろまった「よい女性像」(なかみがなんであれ)をみんなで「こういうのがいい女性だよね」と再確認するイベントであり、「よい女性像」の多様化と容易化を阻むので、反対です。

 つぎに、「みる・みられる」の関係は、これまでずっと「男性=みる人、女性=みられる人」というかたちをとってきました。これも、テレビをはじめとした芸能ビジネスの発展や、芸能情報発信をする地位(プロデューサーなど)に女性がふえてきたこと、そして女性がみずから自分の欲望やのぞむことをくちにだせる機会が(女性運動やその他の歴史をとおして)増えてきたことなどによって、もちろん最近はかなりかわってきています。男性も女性のように「みられる人」の立場にたたされることがあること、そして男性も女性のように「みられる人」として商品(写真集、イメージビデオなど)にされることがあることは、先進国とよばれる地域にいて大衆文化を消費しているひとなら容易に実感できる歴史的変化だろうとおもいます。
 しかし、こういった変化(男性が「みる人」の立場に常にたっていられなくなったこと)にたいして、男性からのつよい反発がでることがあります。たとえば、BLとよばれる男性間の性愛をえがいた作品ジャンルにつよい嫌悪感をいだく男性はすくなくありません。そもそも男性同性間の性愛自体に嫌悪感がある、など、様々な要因があるとはおもいますが、そのひとつには、女性によって男性がえがかれ、それを女性によって消費されているということへの、つまり「みられる人」の立場に男性がおかれていることへの反発もあるとおもいます。ネットでは有名な「ただしイケメンにかぎる」というフレーズも、男性が「みられる人」の立場におかれることが(女性ほどではないにしても)ふえてきた現状への不満を、「イケメン」を好む(とされる)女性への揶揄に転化することで解消しているとも解釈できるでしょう。同じことが、「韓流ブーム」をばかにする男性にもいえるかもしれません。男性が「みられる人」の地位におちてしまうのは、なかなかつらい体験なのかもしれません。しかしそもそも「みる人」より「みられる人」の地位がひくく設定されていること自体が、おかしいのですが。
 いずれにしても、この変化はまだはじまったばかりです。ネットだけではなく、学校や職場、地域のひとたちのふるまいをかんがえてみてください。こころのなかで「あの男とやりたい」とおもっていたとしても、それを周囲にきこえるところでくちにだしたとたん、男性からも女性からも「あそんでる」とか「ビッチ」とか「常識がない」とか思われる女性がいるいっぽうで、「あの女とやりたい」と男性が公言してもその男性がほかの男性から非難をうけることはほとんどないでしょう。とくに、既婚のひとだったらその差はもっとひろがることでしょう。逆に、その男性を非難する女性がいたら「冗談がつうじないな」とか「男はそういうものなんだよ」とか言われて、非難自体が無効であるかのように扱われたりします。
 こういった男女のあつかわれかたの違いがまだまだ存在する以上、ステージに女性をならべて、審査員ふくめ会場のひとが(おうおうにして異性愛者の男性目線で構築された)世にひろがっている「よい女性像」をあたまにうかべながらならんだ女性をながめて、どの女性がより「よい女性」かの評価をくだすイベントであるミスコンには、反対です。そんなミスコンが今回、これまでのICUにおけるミスコンにかんする歴史を一切ふりかえらないかたちで開催の仮決定まですすんだことは(仮決定のあとも、学内限定サイトのみでの告知)、少しずつ「みる・みられる」の関係の男女差が小さくなりはじめている現代社会への反発があるのかもしれません。

 また、「ミスコン」という言葉には、「ミス」という独身女性につけられる言葉がふくまれています。独身女性しかエントリさせないというルールによって、いったいだれが得をしているのでしょう。「ミセス」(既婚女性)がまじっていたらこまるのは、だれなのでしょうか。
 ミスコンは「よい女性像」にもっともちかい女性を選ぶコンテストですが、おおくのミスコンでは(エントリするひとがある程度いれば)事前審査にうかった女性が大衆のまえにならぶのであって、かのじょらは事前審査においてすでにある程度「よい女性像」にちかいと判断された女性ばかりです。そうでなくとも、エントリする、あるいは他薦によってエントリされるためには、一般的な「よい女性像」からそうとおくないという自負なり、まわりからの評価が必要です。つまり、ミスコンは「1位の女性をみんなで賞賛するイベント」というだけではなく、「それぞれに一定レベル以上にはいい女である複数の独身女性をならべて、みんなで眺める機会」でもあります。
 「ミス〇〇」が独身女性であることの意味は、「匿名の現役ミスの方からのメッセージ」に書きました。つまり、日常生活では既婚か未婚かをみわけることができない雑多な「女性」というカテゴリーから、「妻・嫁にすることができる女」(しかもある程度「いい女」)だけを抽出し、ステージにならばせるイベントなわけです。
 そのような機能をもった「ミス」コンは、女性を「ひと」としてではなく「妻」や「嫁」という立場にふさわしいかどうかでふりわける、つまり社会的な役割におしこめることができるかどうかで評価をくだすイベントであり、その点でもわたしはミスコンに反対します。

 また、「えらぶ」側のひとのおおくが男子生徒や男性教員であること、そして前述のとおり、いずれにしても世にあふれている「よい女性像」を構築しているのは男性の目線がほとんどであることは、以下のことを意味します。つまり、ミスコンで1位にかがやいた女性は、みずからの身体や能力だけを学外にしらしめるだけでなく、どのような男性的目線が彼女をえらんだのかをも体現しているということです。すなわち、「ミス〇〇大学」は、その大学の「女性生徒」だけでなく、その大学における「男性たちの目線」をも代表させられるのです。「どんな女を評価する男性がいる大学なのか」の指標のひとつに、ミスコンがある、という。また、学内の男性同士でも「やっぱあの子が一番かわいかったよな」みたいなやりとりで、意識の統一が成功したりします(実際には失敗していても、失敗していることを告発できない空気が生まれたり)。「みる・みられる」の関係は、女・男のあいだだけではなく、ひとびとのあいだに様々な境界線を引き、固定化し、また、(たとえばミスコンのような)儀式によって最確認されるものなのです。
 もっと一般的なはなしをすると、地域や集団の代表に女性がえらばれることはすくなくありません。しかしそれは、そのひとが女性であることがなにかと都合いいときにかぎられます。つまり、女性が政治家として選挙に当選することはなかなかないもかかわらず、たとえば沖縄をえがいた映画で登場人物の女性が「沖縄」のイメージを担当させられることはおおいですし、あるいはニュージーランドがイギリスの植民地だった時代にニュージーランドにわたった植民者男性たちが「イギリスの男は女性的で、本当の男性性をうしなっている」という解釈をすることで「ニュージーランドの男性性」を構築しようとしたことなどにも、あらわれています。つまり、ほかのなにか(「沖縄」にたいする「日本」、「イギリス」にたいする「ニュージーランド」)とくらべて下位においておきたいものに「女性性」をおしつけることが、よくあるのです。白人がインドや中東に旅にでて現地の女性と恋におちるというおきまりのハリウッド映画も、おなじパターンをなぞっています。
 これは、外部からの目線にとって、ある文化の「女性性」の表象が、一種の「視覚的快感」をあたえるポルノグラフィとして機能していることをしめしています。それは、ときに性的な快感であり、ときに「女性性」を見下ろす優越感の快楽でもあり、ときには異文化を身勝手に消費する快感であり、ときにはそのすべてが混じってることもあるでしょう。「ミスアメリカ」とよばれる女性には、かってに「アメリカ文化」や「アメリカ人らしさ」という偏見がむけられます。「ミス日本」も、「ミス・ニューハーフ」も、他者からみればそれは、たんなる「女性」ではなく、フェチシズムの対象となる属性をもっているのです。大学のあいだで実際におおきな文化的差異があるとはおもえませんが、それでもひとは、「〇〇大学らしさ」というものを漠然としんじていたりします。たとえば、「岩手大の女子生徒」にはなにか素朴な部分があるとおもってやいませんか。「東大の女子生徒」にはちかづきにくさとか、恋愛経験のすくなさを期待してやいませんか。さらに、短大だったら知性がかけているとおもったり、理系の大学だったら勝手に白衣姿を想像したり、女子大だったら上品さを期待したりレズビアン関係を疑ったりしていませんか(いや、していないのならいいんですけど(笑))。
 これは、もちろん、「男だったら自分の大学の女子を学外からのフェチシズム的な目線から守れ」と言っているわけではありません。守らなくていいので、加担するのをやめましょうと言いたいのです。
 「ミスコンをやりたがってる女子生徒がいる」という反論もあるとおもいますが、わたしは「〇〇をしたがってる友人がいる」からといって、それをてつだうかどうかは「〇〇」がただしいことかどうかできめます。重要なのは自分がそれをただしいとおもうかどうかであって、その判断を保留にしたままで「友人のために」と言ったり、本当はただしくないと思っているけど「友人のために」と言って責任を友人におしつけることはよくないだろう、と言いたいのです。「ミスコンをやりたがってる女子生徒がい」たとしても、自分がミスコンをただしいことだとおもわないのなら、やるべきではないでしょう。逆にいえば、どんないいわけをいったとしても、ミスコンをやるときには、自分の「ミスコンをやる」という決断にともなう責任が発生するということです。
 もちろんこれは、女性がみずからの意志でなにかの代表になることを否定するものではありません。他者からの消費的な目線は、それが(民族や障害、階級、セクシュアリティなどとからまったうえで)女性にかたよってむけられていることが不当なのであって、ひとまえにでたときに不当なかたちでみられたとしても、その女性には責はありません。反省的にみつめなおすべきなのは、その不当にかたよった目線のありかたを「よし」とするような、メディアや日常生活におけるひとびとの表現行為の蓄積です。だから、そのような不当にかたよった消費的目線を追認するミスコンというイベントには、「今後もかたよったままでいいのだ」というメッセージを送ってしまう側面があり、その理由でわたしはミスコンに反対します。

3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか?

 まず、「容姿だけではなく」といっても、結局、容姿が(ある程度)「よい」と認定されなければほかにどんな長所があったとしても「ミスコン」で1位になることはむずかしいでしょう。
 そして、わたしは容姿以外の様々な能力をふくめて「ひとりの人間として」女性をみること自体には重要性をかんじるものの、それをミスコンという形式でおこなうことには反対です。というのも、「ひとりの人間として」AさんはBさんよりもすぐれている、という表明を公に、それも集団の判断によっておこなうことが、よいことだとはとてもおもえないからです。むしろ、「容姿だけ」でランクづけするよりも、よっぽど非人道的なことなのではないかとすらおもいます。

4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか?

 まず、これらの派生ジャンルはすべて、ミスコン批判を回避するためにかんがえだされたものだということをかんがえるべきだとおもいます。つまり、「ミスターコンもやるからいいだろう」などといってミスコンを擁護したいがためにかんがえだされたものだということです。そのやりかた自体に、わたしは卑怯さをかんじます。

 また、上にかいたように、わたしがミスコンに反対する理由は、ミスコンが社会全体にある「よい女性像」とのかかわりにおいて、それを強化したり、多様に発展していくながれをとめる効果をもっていることです。ですから、社会全体において男性がどうみられているか、女性がどうみられているか、そして女装・男装するひとがどうみられており、しないひとがどうみられているか、という点でかたよりがある状態では、かれらをどんなに形式的には平等にならべても(あたかも本当に平等であるかのように)、社会のそういったかたよりに影響をうけていないわけがない審査員や聴衆にランクづけさせるのでは、ちっとも平等ではありません。
 「ミスターコンだけをやっている」「男装コンテストだけをやっている」などのところは、すこしだけマシかもしれませんが。また、ミズコン(既婚・未婚をとわないバージョン)は、すこしだけマシだとおもいます。それでも、上でかいた「ミス=独身」問題以外の点では問題がのこっているとおもいます。

 また、女装コンテストは最近おおくなってきましたが、男装コンテストは非常にすくないです。これは、ミスコンがミスターコンよりも圧倒的におおいのと同様に、「よい男性像」よりも「よい女性像」のほうが画一的で、ランクづけがしやすいという要因が1つかんがえられます。また、男性による「女装」はなぜか男性にも女性にも肯定的にとらえられることがおおい一方で、女性による「男装」がなぜか同様の評価をうけづらいという状況もあります。
 これは大昔から文学など芸術の分野でうけつがれてきたかたよりです。たとえばシェイクスピアの演劇は、女性の役を(わかい)男性がえんじていました。それは、女性は演劇のステージにあがってはいけないという差別的なルールがあったからです。同様のことは、日本の歌舞伎などにもみられます。つまり、男性が「女性」をえんじることはゆるされていたのに、女性はなにをえんじることもゆるされていなかった。女性による演劇への参入がみとめられてからも、女性が「男性」をえんじることはほとんどゆるされてきませんでした。追記:この部分について、Cristoforouさんよりした。
 これは、人種にかんしてもおなじ現象がそこらじゅうにちらばっています。かつて米国では(いまでもその傾向はありますが)、テレビや映画において、白人俳優が黒人の役をやることはコメディなどでたくさんみうけられましたが、黒人俳優は(そもそも人数がすくなかったこともありますが)白人の役をもらうことはほとんどありませんでした。最近では、同性愛者の俳優が異性愛者の役をもらうことのむずかしさについて語った俳優が話題になりました。
 「大は小をかねる」という言葉があります。これはつまり、上位にあるとおもわれるものは、下位にあるとおもわれるものの代わりになることができるという意味です。この発想とおなじものが、「えんじる」という行為にもあてはまれられてきた歴史があるのです。
 いや、単に逆がむずかしかっただけじゃないか、という反論もあるかと思います。しかし白人による「黒人」の模倣は(表現方法に黒人を侮辱するものがおおかったというだけではなく)だいたいヘタクソなものばかりでした。白人は肌をくろくぬれば「黒人の肌」にみえるけど、黒人の肌を「白人の肌」にみせるのは大変だ、という一見もっともらしい説明もあるにはありますが、そもそも白人がぬりたくった「黒」は、ずさんで適当な黒でした。これは、「黒人の肌」が実際にどんなものなのかには興味などないから「充分黒人っぽくね?」と白人たちがおもってしまったのであって、同時に、おなじように適当にぬられた色でも、「白人の肌」には関心があるものだから、「こんなのは白人らしくない、ずさんだ」とおもったのでしょう。黒人のコミュニティでしばしばつかわれるしゃべりかたの特徴の模倣についても、おなじことがいえるでしょう。また、男性による「女性」の模倣にも「えんじる」という観点からは非常に完成度のひくいものばかりが蔓延しています。とくに声は、男性が「女性」の模倣をするのも、女性が「男性」の模倣をするのも、なかなかむずかしいものの1つです。それでも男性による「女性」の模倣は、たまたまうまければ賞賛され、ヘタクソでもコメディとして成立したりします。
 わらいというのは、基本的には「日常生活とのずれ」によって生じるものですから、ヘタクソな「女装」が笑いをとるのは、その「女装」のうらがわにある「本来の男性の身体」がつよく認識されていることを意味するでしょう。そして、その男性身体「にもかかわらず」えんじるという行為によって身体の制約からのがれて「女性」の模倣ができるだろうと期待されているのが男性です。「模倣」という「技術」であることが前提としてあるからこそ、男性身体とえんじられる「女性性」のギャップが明確に聴衆につたわり、わらいをうみだすのです。一方で女性は、どんなにがんばっても「男なみ」にはなれないとみくだされてきた歴史があります。「なんだかんでいって生理で仕事やすむんじゃ、おおきな仕事はたのめないな」とか、「だってきみ、どうせ結婚・妊娠したらやめちゃうんでしょ? 出世したって意味ないじゃない」とか、女性をばかにしたものいいには、女性のいきかたや人格などを女性身体とむすびつけるものがたくさんあります。「男性」の模倣ができるわけがないとされてきた女性俳優もまた、その歴史から無関係ではないでしょう。

 最後に、「ICUらしさ」コンテストの問題も指摘しておきます。そもそも「ICUらしさ」とはなにを意味するのでしょうか。ICUは、エリート校です。実際にあたまがいいかどうかは個人によりますし、「あたまがいい」という基準もあいまいなものですが、すくなくとも学費はたかく、学生や教員にもとめられる学術的水準もたかく設定されています。ここには、階層の問題や、教育の機会の問題があります。
 「ICUらしさ」といったときに、外部からも内部からも「日英バイリンガル」「国際性」などが、とくに内部からは「批判的思考」「リベラルアーツ」などが、そしてとくに外部からは「キリスト教がつよい」「特殊な入学試験なので合格しづらい」などがきかれます。これらの要素をひっくるめて「ICUらしさ」と(かりに)呼んだとして、「国際的な経験(帰国子女なり留学経験なり)があり、日英バイリンガルで、リベラルアーツの教養をもち批判的思考ができるキリスト教信者のICU生」がえらばれるとしたら、それはおそらくかなりの確率で、「ICUのなかでも裕福な家庭のひと」でしょう。
 そういう予想が簡単にできる状況で「ICUらしさ」をきそわせることは、すなわち家庭の経済状況をきそわせることになります。そんなコンテストには、わたしは反対します。

5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか?

 ミスコンにエントリする女性には、様々なひとがいます。たとえば、「匿名の現役ミスの方からのメッセージ」で紹介させていただいた現役ミスのかたは、まちづくりに積極的に参加するつもりでエントリしたそうです。また、社会貢献を本気でやっているミスのひと、ミスコンのなかにある問題点を改善しようと内部からがんばっているミスのひと、おおきなミスコンにでて有名になることで知名度をあげて社会につたえたいことを発信しようとしているひと、などなど、本当に多様です。もちろん、就職活動に有利だからという合理的な判断をするひともいます。たんにたのしいイベントがすきだから、というひともいます。自分にもっと自信をもつために参加するひともいます。
 わたしは、そういうひとのことは、性別関係なく、がんばってほしいとおもっています。
 ミスコンには問題はあります。でも、いまある資源をつかって目標を達成することには、とくに非難する必要性をかんじません。
 たとえば社会的に男性に位置づけられるひとは、すでにいまある資源をふんだんにつかっています。仕事場で上司に意見をいってもはなしをきいてもらえなかったり、あろうことか「今度ゆっくり」なんていわれて食事にいったらセクハラされた!みたいなことになっている女性がすくなくないのに、一方で男性のほとんどははじめから「仕事はある程度できるだろう」と信頼してもらえるし、セクハラもめったにありません。学校教育においても、男子生徒にたいするそういった優遇措置はたくさんあります。たとえば私は男子生徒だったのですが、あるとき面談で担任に「おまえ、数学で女子にまけてるぞ。もっとがんばらないと」といわれたことがあります。この担任が、当時わたしよりも数学の成績がよかった女子生徒との面談で彼女にいったいなにをいったのだろうか、と、いまでもときどきおもいだしてはかんがえこんでしまいます。こういったことは、わたしの担任だけではなく、いろいろなところでみうけられるようです。
 また、たとえば昇給についても、米国の調査ですが、こんなものがあります。これまで女性が男性よりも昇給の機会がないと思われていたところ、じつはそもそも女性は昇給を上司に提案することに消極的だ、という調査結果がでたのです。しかしさらにこの問題についてくわしく調査したところ、部下である「女性」と「男性」の積極性や消極性という男女差ではなく、「上司」の性別と部下の性別のくみあわせによって部下の積極性がある程度左右されていることがわかったのです。つまり、男性の上司に昇給を提案するのは、男性の部下にとってはむずかしくないが、女性の部下にとってはむずかしい。逆に上司が女性の場合は、男性の部下も女性の部下もかわらず昇給を積極的に提案できる、という結果がでたのです。管理職に男性がおおい環境、というだけでも、そこではたらく男性はすこしだけ女性よりも優遇されているのです。しかしその特権をつかって出世したり夢をかなえるのは、非難の対象になるべきではありませんよね。

6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか?

 上にかいたような、性別や、性に関する自己表現、セクシュアリティ、民族、障害、階層など、社会にたくさんある様々な「かたより」がなくなったら、ミスコンをやってもいいとおもいます。もちろん、そんな社会には「ミスコンをやろう」というひとなんていないでしょうけれども。

7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。

・ミスコンをやる大学はレベルがひくく幼稚だが、これまでやってこなかったICUはレベルがたかかった、的な意見。

・ICUでやってもどうせかわいい子なんていないよ、という意見。

・ミスコンにでるような女は女の敵、という意見。

・大学当局によってつぶされて、企画者は処罰されるべき、という意見。

8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。

 今回のミスコン企画が実際に開催されるかどうかは、わたしは個人的にはそこまで重要なことではないとおもっています。なので、「中止」を目標にはしていません。中止されなかったとしても、ICUの学生や教職員、そして学外のひとたちがこの問題について、いままでよりもうんとかんがえてくれることを、個人的な目標にしています。
 そして、中止になるとしても、一切周囲からの強制・脅しなどがないことをのぞみます。たとえばICU祭実行委員会や大学当局が「中止」を決定したり、主催団体に「中止」の決定を強制するような事態は、なにがなんでも阻止すべきです。しかし一方で、個人や団体による「批判」「意見」はおおいにおこなわれてほしいとおもっています。
 むしろ、批判内容に納得しないのであれば、ぜひともミスコンは実施してもらいたいです。納得していないのに「中止」によって対話ややりとりがうやむやになり、ミスコンについての議論がストップしてしまうよりは、ミスコンが実施されたとしてもそのあともずっと議論がつづいていくほうがのぞましいとおもっています。

9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか?

 社会全体であり、とくにICUにこれまでかかわってきたひと全員(わたしふくめ)です。なにに責任があるかといったら、ミスコン企画が可能になるような社会をわたしたちひとりひとりが形成し(つづけ)ていることであり、ICUという場所にいながら、その身近な場所すら変革しようとしてこなかったことに、です。
 
10. ミスコン関係なく、あなたが普段から「よくないなあ」とおもっていることがあったら、おしえてください。

・児童ポルノ規制法の強化と、非実在青少年関連の規制論
・同性愛者のめだつ政治活動における、経済的多様性への関心のなさ
・DV(近親者暴力)支援体制における、身体的暴力への関心の偏重
・在日コリアンにたいする日本政府および日本国民による様々なかたちの暴力
・北京会議以降の日本のフェミニズムの主流化と、それにともなう問題
・難民申請者や外国人労働者の人権にたいする日本政府の無知・無関心・悪意のある無視

 これだけのながい文章になると、同意できないところ、まったくもって「おかしい!」とおもうところなど、たくさんあるとおもいます。どうぞしたのコメント欄やツイッターでご批判おねがいいたします。

マーティン・ルーサー・キングJr.の引用文とオサマ・ビン・ラディンの死

 オサマ・ビン・ラディンが殺されてまもなく、英語圏で以下の引用文が一気に広がり、5月2日の夜(米国)にはわたしの Facebook のニュースフィード(ツイッターで言うタイムライン)にも既に数個同じものが流れていた。英語ブログでこのことについて書いたらいきなり普段の数倍のアクセスがあったので、この引用文への関心が高い様子が分かると思う。日本語話者のツイッターアカウントにも流れ始めていたので、日本語ブログででも書いておこうと思います。

 引用文の内容は以下の通り。和訳は適当です。

“I mourn the loss of thousands of precious lives, but I will not rejoice in the death of one, not even an enemy. Returning hate for hate multiplies hate, adding deeper darkness to a night already devoid of stars. Darkness cannot drive out darkness: only light can do that. Hate cannot drive out hate: only love can do that.” –Martin Luther King, Jr.

「わたしは、かけがえのない数千の命が失われたことを悼むと同時に、たった一人の死も——たとえそれが敵であっても——喜んだりはしない。嫌悪に嫌悪で返すことは、嫌悪を増大にするだけであり、既に星のない夜に更に暗さを追加するようなものだ。暗黒は暗黒を追いやることはできない。それが出来るのは光だけだ。嫌悪は嫌悪を追いやることはできない。それが出来るのは愛だけだ。」マーティン・ルーサー・キングJr.

 この引用文を初めに見たとき、「MLK(マーティン・ルーサー・キング)が生きてたらそう言うかもしれないけど、オサマ・ビン・ラディンが殺されたという今の文脈で、それをMLKが言うことは適切だろうか」と思った。

 ビン・ラディン関連のウェブページばかりが検索に引っかかるので大変な思いをしてやって見つかったのが、以下のサイトだ。

 全て、今回出回ったMLKの引用文が偽物である、似ている箇所はあるけどMLKの本などにはそんな言葉は無い、という内容だ。MLKの言葉である、という証拠が出ていない現状では、わたしはこの引用文を偽物だととりあえず思うことにした。

 でも、この引用文が偽物であるからといって、単に引用(というか、偽情報の拡散)をやめればいいかというと、そうでもないと思う。この引用文が出回っていること、それが意味すること、それがもたらす効果などは、引用文が本物かどうかとは関係ないのだから。多くの米国市民(その中には「(今のところ)今世紀最大のテロリスト!オサマ・ビン・ラディンの死!」を祝っている人もたくさんいる)にとって、この引用文は命を大切にすることについて考えるきっかけになるだろう。

 けれど、引用文が本物だろうが偽物だろうが、オサマ・ビン・ラディンの死という文脈においてはこの引用文は不適切と言わざるを得ない。

 そもそも、MLKはオサマ・ビン・ラディンを「敵」とみなしただろうか。不利益や酷い差別を受けていた多くの黒人と一緒に黒人市民権運動を通して白人至上主義的な米国社会から権利や尊重を少しずつ勝ち取る運動をしたMLKにとって、「敵」とは一体誰だったのか。

 「”Love is the only force capable of transforming an enemy to a friend” 敵を友人に変えることの出来る唯一の力は、愛である」とMLKは言った。市民権運動の文脈での「敵」は、暴力において優位に立っていた者のことである。であれば、MLKにとっての「敵」とは「白人至上主義者」だったと考えて間違いない。

 「テロとの戦い」という言葉が反ムスリムの政治活動や中東出身者への社会全体の嫌悪を支えるレトリックになっているいま、自分の言葉が(自分のじゃないんだけど、たぶん)「うーん、わたしたちにとってビン・ラディンは敵だけど、死んだのを喜んだりはしないよ」というリベラルな自己表現に使われることをMLKは果たして喜ぶだろうか。「わたしたち」はいったい誰か。もし引用者が「わたしたち」にMLKをも含まれると思っているなら、ひどく間違えていると思う。

 確かにMLKは、「”Returning violence for violence multiplies violence” 暴力に暴力で応酬することは暴力を増大させる」と言った。ここで、1つめの「暴力」をV1と呼び、2つめの「暴力」をV2と呼ぼう。すると、「V1にV2で応酬することは暴力を増大させる」となる。そして、ここでのV1とはいったい誰の暴力だろうか。多くの人は9・11をV1だと思っているらしい。けれど、それは大きな間違いだ。

 世界で起きた様々な暴力の歴史を全て振り返ることは難しいけれど、規模・期間・効果の面で考えると、わたしにはV1は西洋社会(特に米国)がサウジアラビア、イラクその他でやってきた物理的・経済的・社会的暴力(イスラエルを支持していることなども含め)のことであるように思える。9・11は、そもそもV2だったのだ。オサマ・ビン・ラディンとアル・カイダの仲間が行ったのは、「暴力に暴力で応酬すること」だったのだ。もちろん、それに対して2000年代米国や米国に親和的な国家が更なる暴力を引き起こしたことを考えると、MLKの「暴力を増大させる」というのは真実だが。

 もし引用者がMLKのものだったとしても、米国市民がそれを引用する資格は無いと思う。世界で起きている暴力を止めたいと思っている中東の人々によって引用されるべきもののはずだ。もちろんそれは、世界で起きている暴力の責任が中東の人々にあるからかれらが止めるべきだと言っているのではない。MLKの時代においても、MLKの言葉は黒人に向けられていたけれど、実際に暴力をやめるべきだったのは黒人じゃなくて白人至上主義者たちだ。同様に、中東における暴力を米国等西洋国家がやめるべきだというのは当然。

 MLKを引用すること(MLKの言葉ですらないんだけど、たぶん)によって、米国が行っている暴力の責任から個人が逃れることは出来ない。あたかも全ての始まりはオサマ・ビン・ラディンの暴力であったかのような振る舞いでオサマ・ビン・ラディンを「擁護」するのはやめて、米国・英国・日本、そして中東の人々の土地に軍を送った全ての国の責任を追求しなければいけない。なぜなら、わたしたち先進諸国は9・11というV2に対して、V3で応酬したのだから。

*修正*
 MLKは「”Returning violence for violence multiplies violence” 暴力に暴力で応酬することは暴力を増大させる」とは言っていませんでした。「”Returning hate for hate multiplies hate” 嫌悪に嫌悪で応酬することは嫌悪を増大させる」、そして「”violence multiples violence” 暴力は暴力を増大させる」とは言っています(ここをクリックすると本の該当部分が見れます)。この違いによって上で書いたことが無意味になるわけではないですが、引用文の不正確さを指摘する記事で引用ミスしてたんじゃ目も当てられないわオホホ。ごめんなさ〜い。

米国LGBT家族・友人団体PFLAGと、「クィア」vs「それ以外」という分け方について

 フェミニズムとかクィアの問題について普段は色んなことにツイッターやブログで口を出しては嫌がられるというパターンを繰り返してるわたしですが、ぐうたらな大学院生なりに研究的なこと(<「研究」と胸を張って言えないのが悲しいけど)も一応やっております(というアピール)。これまでの研究は、学士論文だけど「昭和40年代歌謡曲と女性」(英語、いずれ書きなおしてどこかに出します)、クィア学会で発表した「〈貧困〉は〈クィア〉か」(日本語だけど、原稿どっか行っちゃった)、あとイギリスの日本研究系学会で発表した「児童ポルノと法:ナショナリズムと反規制言説」(英語、そのままだと原稿部分が表示されないのでダウンロード推奨)などがあります。んで、いま修士論文書いてるんですが、その暫定的タイトルは「LGBT政治内の『親の活動』のエージェンシー:なぜ参加するのか、あるいは参加しないのか」です。

 歌謡曲論文は音楽学を使った作品分析にクィア系文学理論を合わせたもの(指導教官の専門は英文学)、児童ポルノ発表はネット上の言説と国際的反児童ポルノ運動をからめてカルスタ風に、貧困クィア発表は「クィア」とか「ヘテロノーマティビティ」とかのクィア理論の概念についてあーだこーだ言うだけ、そして今回は社会学の指導教官についてインタビュー・ベースの修論。博士課程では文化人類学やるかもしれません。という、どんだけ揺れてるのあなた、という感じですが、まあわたくしなりに一応一貫したテーマみたいなのはあるんですよフフフ、みたいな。

 というわけで、いま正に継続中の研究なので書けることは限られるんですが(インタビューだし、人が相手だし、色々あるのよ(っていうか日本にはIRB [Internal Review Board] が存在しないと聞いたんだけど、マジで? 調査倫理を勉強する機会に溢れてるので必要ないとかならいいけど、そうじゃないわよね))、ここ数カ月調査していてすごく面白いな〜と思った点を(自分の備忘録も兼ねて)書いておこうと思います。

 PFLAG(ピーフラッグ)というのは「Parents, Family, and Friends of Lesbians and Gays」(レズビアンとゲイの親・家族・友人)の略で、都市を中心に数百の部局(チャプター)と二十数万のメンバーを抱える、この類の団体では米国で(というか世界的に)最も大きなもの。「非友好的な社会で生きていくための支援」「無知や間違った情報に対抗するための教育」「差別を無くし、平等な市民権を獲得するための権利擁護」の3つの理念的柱を掲げて、LGBTの若者に加えて、かれらの家族や友人を受け入れて活動している。と言っても一般的には、子どもからレズビアンやゲイとカミングアウトを受けた親や保護者が電話やメールを通してサポートを受けたり、実際に月例のミーティングに参加するなどする場所という理解が広まっている。それは確かに間違いではないのだけれど、他にも色々やっている事実はあまり知られていない。

 活動の多様性は後述するとして、PFLAGがLGBT政治内や学問の世界でどのようにとらえられているかを少しだけ説明する。単純に言えば、LGBT政治内ではほとんど目を向けられることはないのが現状。特に、「クィア」とかの言葉を使う団体や有色人種系、障害系などとからめたマルチイシューな団体、それらの言説に慣れている個人活動家や学生のあいだではほとんど話題にも上がらない。逆に論文検索なんかにかけると、「いいことしてるよね」と適当に他者化されるか「アメリカの中産階級・白人中心的な家族的価値観を再生産している」とラディカルに糾弾されるかに反応が二分されている。前者は心理学系・ソーシャルワーク系の論文が多く、後者はフェミニズムやクィア理論に近接してる分野に多い。

 市民権運動とLGBT運動を専門とする人と話しているときにPFLAGの名前を出したら、「ああ、あのWUNCディスプレイの激しいところね」と笑われたこともある。(社会運動の理論によると、社会運動には「キャンペーン」(持続的な集団活動)、「レパートリー」(連帯したり、公共の場で集まったり、デモをしたりという方法論の採用)、「WUNCディスプレイ」(運動主体や対象に価値 worthiess 、統一 unity 、 大勢の参加 numbers 、そして深い関与 commitments があることを表現すること)という3つの要素がある。)それだけ、PFLAGはそういう「あってもいいけど、問題もあるし、なんか信用出来ないところ」という位置に置かれてるということだ。もちろんPFLAGが評価されている場もあるけれど、恐らく今の米国のLGBT政治の向かっている方向(アイデンティティ政治の権利獲得運動とラディカルな社会変革をマルチイシューに進めていく運動の二分化が進んでいて、どちらもある程度成果を出しながらも、運動の現場では後者の声が少しずつ高まっている状況)を考えると、PFLAGの評価が下がることはあっても、上がることはないと思う。

 クィア理論やフェミニズムをある程度踏まえた議論においてPFLAGが批判の対象となるのは、パンフレットなどを通してPFLAGが対外的に見せている「外の顔」が明確に「アメリカの中産階級・白人中心的な家族的価値観を再生産している」ようなものであるから。例えば中には “We Are Mainstream America” (私たちは米国の主流の団体です(超意訳))とか書いてあるものがある。「親の愛」というレトリックも多用されていて、そこにミソジニー(女性嫌悪)的なものを感じるのは当然だとも思う。実際に調査(パンフレット等の内容分析とインタビュー)をしたのは Jessica Fields という人(PFLAGの名前は出していないけれど、恐らくPFLAGの調査)と、 K. L. Broad という人で、ふたりともPFLAGのやり方の危険性を指摘する結論を出している。特に Fields は、「境界を変化させるような『クィア』という概念」に照らし合わせた結果、PFLAGのやり方はLGBT当事者にとって最終的には悪い結果をもたらすだろうとまで言っている。

 でも、「クィア」という概念を使いつつPFLAGを「ほとんど中産階級の白人だ」と決めつけたり、全員ヘテロセクシュアルである前提で議論をしているのは Fields と Broad の方だ。調査の初めの段階でPFLAGのミーティングに行ったときにわたしが最初に出会った人たちのひとりは、ゲイである自分はストーンウォール事件のあった1969年のすぐあとから当事者として様々な活動を行って来ていて、PFLAGとも関わって来たが、最近になって娘のひとりにレズビアンであるとカミングアウトされたという人だった。たったひとつの例だけれど、下に説明する色々なことも含め、当初 Fields や Broad に同意してPFLAGの調査を始めたわたしにとって、もしかしたら Fields や Broad の前提は暴力的な決め付けだったのかもしれないと疑いを持つきっかけになった。

 ミーティングで出会ったPFLAGメンバーと話をしたりネットで色々団体の歴史を見てみると、PFLAGはストーンウォール事件から4年あまりの1973年に初めの部局(ニューヨーク)が出来ており、90年代からは(団体名はそのままだけれど)トランスジェンダーおよびバイセクシュアルの問題について公式に団体活動の範囲であると認め、その後有色人種のLGBTの支援を強化するためのプロジェクト(FOCN [the Families of Color Network])を開始し、現在全米に広がっている部局のうち15がそのプロジェクトを実施している。もちろんこれらの試みは全く不十分であるというのが、色々話を聞いたり状況を見た上でのわたしの考えだけれど、こういう努力がほとんど知られていないという状況も問題だと思う。

 それに、かれらがトランスの権利や移民の権利について真剣に考えている様子は、シカゴにいて入ってくる情報だけでも分かる。PFLAGのメール(メーリングリストではなくCCやBCC、転送を駆使してるのが主要メンバーの年齢層の高さを表しているようで微笑ましいのだけれど)ではPFLAG関連情報の他にLGBT関連の最新報道記事や各部局のある地域でのLGBT関連イベント情報なども流れてくるのだけれど、同性婚などの「そりゃ回って当たり前よね」的な情報と同じくらい、あるいは少し多いかなという量の、トランスジェンダーの安全・雇用の問題、そして移民のLGBTの法的地位についての情報が流れてくる。

 更に、 “Screaming Queens: The Riot at Compton’s Cafeteria” というドキュメンタリー映画(制作は歴史学者の Susan Stryker )を前にツイッターで紹介したのだけれど、これはストーンウォール事件の3年前、1966年にサンフランシスコでトランスの人たちによる暴動があり、これによっていくつかの点でサンフランシスコ内でのトランスの人向けの法的改善がなされたりした歴史を掘り返す映画。「全てはストーンウォールから始まった」と語られることの多いLGBT政治の歴史観を覆す内容であり、更に、LGBT政治におけるトランスの存在と重要性、貢献を明らかにする重要な映画でもある。この映画をシカゴで上映したのも、実はシカゴ内にあるPFLAGの部局のひとつだった。その部局は毎年、開催場所や時期はずれるけれど、10くらいの映画を選んで映画祭のようなものを小規模ながら開催している。団体内では常に定期的に映画上映会を行っていて(他にも、ゲストスピーカーを呼んだりしてるけど)、その中でも頻繁に上映されていると言ってわたしにも個人的にDVDを貸してくれたのが、 “Anyone and Everyone” という映画だった。これは米国内の様々な地域に住むアジア系、ネイティブ・アメリカン、黒人、ラティーナなど有色人種のLGBTの家族をインタビューを通して追ったドキュメンタリー映画。実際にどのような形でFOCNプロジェクトが効果を生み出しているかとは別に、少なくともこういう形で様々な試みが行われていることは Fields や Broad が(かのじょらの調査時には既にFOCNは始まっていた)見逃してしまったPFLAGの側面だ。

 更に、またしてもわたしの調査の範囲でしか話せないけれど、PFLAGのミーティングやイベントは、普段からもバリアフリーな地域施設を使っている。メンバーの平均年齢が高く、杖や歩行補助車、車椅子を利用している人などが多くいる団体なので、そういう配慮がある程度実践されているのだと思う。また、地域施設を積極的に使う中で施設との信頼を生み出すのだろうけれど、例えばローカルな図書館のスタッフと密接につながることで、その図書館がトランスジェンダーに関する図書を集めたセクションを作るという成果も生まれている(もちろんそのPFLAG部局だけの成果ではないけれど)。また、多くの部局のミーティング会場はその地域の教会だ。教会とPFLAGの関係は歴史的に長く、メンバーにもキリスト者が多い(このへんの複雑な関係は、修士論文がまとまってからまた報告します)。中には、教会の神父に自分の子どものセクシュアリティについて相談したところPFLAGを紹介されたというメンバーもいた。ラディカルに様々な制度を批判し続けることの重要性はもちろんあるけれど、こうやって地域の人たちとつながることで既存の制度との協力体制を作りつつ既存の制度に介入していくことそれ自体を間違いだと言ってしまうと、これまでPFLAGやその他の多くの団体が成し遂げてきた成果をも否定してしまうことになる。この点は、わたしも日頃の態度を反省するべきだと思った。

 ただ、全ての部局が全ての場合においてバリアフリーな会場を用意しているわけでないのは急いで追記が必要なことなので、言っておきます。例えばポートランドで行ったPFLAGのパーティ会場は坂の途中にあって、更に会場内が広すぎてメンバーがどこに集まってるのかも分からず、長い廊下を歩き続けてやっと見つけることが出来た。それに、わたしはバスで行ったのだけれど、バス停から会場までの道も分かりづらかった(って、これは単に慣れない土地だったからか?)。全国規模のイベント(と言っても全米をまとめてるスタッフが来てローカル部局のメンバーと交流する、とかなんだけど)が6月2日にシカゴで行われるので、色々と注意して見てみたいと思う。

 PFLAGの団体としての、あるいは部局としてのあり方はここまでにして、次にメンバーの多様性についても話しておく。わたしが実際に見た範囲だけれど、PFLAGのメンバーには実際には色々な人がいる。PFLAGのイメージの1つに「中産階級の裕福なメンバーによる活動」というのがあるけれど、インタビューをしていくうちにそうとも言えないなと思うようになった。確かに現在経済的に余裕のある人間がPFLAGの活動に集まって来やすいのは事実。でもわたしがインタビュー前に書き込んでもらった調査票には「過去の職業、収入、居住地」をリストアップする箇所があって、その内容は非常に多様だった。インタビューの中でそれについて聞くと、これまでずっと現在の比較的余裕のある生活が送れて来たわけではないという人ばかりだった。かつて経済的に(各自程度は違えど)苦労した経験は、たとえ現在の経済的状況がよかったとしても、その人の文化的背景に大きな影響を与えているはず。それに、もし経済的に余裕のあるメンバーが集まっているということを団体の活動の評価に反映させるとしたら、多くの当事者団体ですらその非難を逃れられないだろう。

 また、年齢と育った地域によって色々と違いはあるけれど、インタビューをした人たちのうち1人を除いて、子どものカムアウト以前に何らかの形でLGBTの人(当時はそう呼ばれていなかった場合も含め)との交流があったりする。それは「短大を出たあと単身で都市に行って経済的にぎりぎりの生活をしていたころ、時々まとまったお金でゲイクラブに行くのが唯一の楽しみだった」という比較的若い人から、「子どもの頃近所にあった美容院はゲイカップルが経営してて、よく遊びに行っていた」という人まで、色々いた。「高校の同級生が今で言うゲイだったが、小さい頃から家で女装していて、親もそれを咎めたりしていなかったらしい」とか、年齢のかなり高い人までが「学校の先生が今で言うレズビアンであることをみんな知っていたし、女子学生の一人とのちにパートナーになった」と語り、周囲の反応と当時の自分の反応を詳しく聞くと、「みんなその先生を尊敬していたし、からかったりはしてなかった。振り返って考えたことはなかったけれど」と言っていた。「子どものカミングアウトにショックを受けた」と答えたのはたった一人で(それでも「3歳くらいから、多分そうなんじゃないかとは思ってたんだけど」と笑った)、その他のインタビュー対象者は「まず、この子がこれから差別を受けるんじゃないかと心配した」と答えていた。これは、PFLAGやその他の個人の「LGBTの親」が世間に見せている「外の顔」、つまり「わたしは子どもがカミングアウトしてきて本当に驚いた。つらかった。けれど子どもを愛しているのは変わらないと思い直し、受け入れ、いまは子どもを誇りに思っています」という美談とは、かなりずれる語りだ。

 また、インタビュー対象者は1人を除いて、全員何かしら他の社会運動に関わっている。学校教育の制度からはじかれてしまった子どもに勉強を教える活動を何十年もやっている人、自分が経済的に余裕があるときは常にホームレス支援に参加してきた人、若い頃から地域の女性団体に関わって来た人、労働組合のスタッフとして7年のあいだ戦った人など、それぞれに分野は違えど、子どもがカミングアウトする前からそもそも社会運動の重要性を身近に感じてきた人が多い。更に、白人のインタビュー対象者の複数人から同じことを聞いて驚いたのが、市民権運動に当時自分がきちんと参加しなかったという後悔の念が、今の自分の活動を後押ししているということ。特に、当時南部に住んでいた人は「子どもがゲイであるということで、わたしは、あの頃市民権運動にきちんと貢献できなかったぶん、今度こそ全力で活動するぞと思った」という人もいた。

 調査を続けるにつれて、(まだ人数が少ないから何とも言えないけど)たぶん Fields とか Broad の研究の結論とは違う側面が見えてくるだろうと思う。初めは Fields と Broad に同意して始めた調査だったし、その後も結構長いこと人種と階級がLGBTの家族を「PFLAG(あるいは類似団体)メンバー」と「それ以外」に分断しているという予想を持っていたけど、今はむしろ宗教の問題と地域間移動の問題が鍵になってる気がする。また、「当事者」と「それ以外」に分けて、後者は一切クィアな面の無い団体・人たちという前提のもとで、取るに足らないものとしたり、同じことをしていてもより強い批判を向けることは、そもそも「クィア」という概念と関わる大きな問題だと思う。わたしの今回の調査の目的のひとつは、PFLAGに代表される「LGBTの家族」をきちんとLGBT政治の文脈に置き直して、単なる「親」だけではない複層的な立ち位置に光をあてること。このへんは、修士論文の形にちゃんとなったらまたブログで報告します。

 もちろん、上で言った全てのことがあるからといって、PFLAGが本当にLG中心じゃないとか、白人中心じゃないとか、中産階級中心じゃない、とは私も断言できない。例えば、ポートランドにある黒人向けPFLAG部局はもう片方の(実質白人向けになっている)部局とほとんど交流が無いという話だし、シカゴにしても、うちから歩いて5分のところに黒人向け部局が1年半前からあるけど、メンバーは殆どいない。シカゴのかなり大きな黒人セクシュアル・マイノリティ女性の団体 Affinity Community Service と一緒にミーティングを開くことでなんとか毎月1回のミーティングを実現しているだけのようなところもある。わたしのインタビューにこたえてくれた人も、これまでのところほとんどが白人だ。PFLAGと関係のないLGBT家族にもなかなかコンタクトが取れない。

 ただ、シカゴの場合は、他のあらゆる部局も最初の数年はメンバーが集まらなくて本当に困ったという話を年配のPFLAGメンバーから聞くので、必ずしも失敗例というわけではないのだろうけれども(ちなみにポートランドはメンバーがそこそこ恒常的にいる、というのをポートランド部局(白人ばかりの方)の偉い人からも、シカゴの知り合いからも聞いた)。

 ちなみにその、うちの近所の部局は、6月か7月に地域の教会(ミーティングの開催場所でもある)と協力しあって「スピリチュアリティとセクシュアリティ」というシンポジウム(というかたぶんそんな大それたものではなくて、単に集まって地域の人との対話の場をつくろうということなのだろうけれど)をやるらしい。私も参加する予定だけれど、「黒人は白人に比べて宗教的だから保守的でフォビックだ」という偏見をまき散らす白人LGBTQ学生活動家が私の周りには多い中、「宗教が全てではないと思う。白人ばかりのLGBT団体が地域の黒人住民たちと対話をしようとしてこなかったからというのも大きいはず」と語っていた人がイベント運営に携わってるので、どういう風に対話が試みられるのか、陰で協力できるところは協力しつつ、期待と不安を持って見届けたいと思う。

「日本初の『ゲイ議員』」は「初」じゃない。

 「ちょっとあんた反応遅くない?」と思われそうなので言っておきますが(笑)、英語媒体で “Japan’s first openly gay politician” とか書いてあるのを見つけてすぐに英語ブログで『“An Openly LGBT Politician in Japan!?” Is Not A New Phenomenon』という記事を書いたので、そちらもよかったら合わせてどうぞ。

 で、日本語の媒体ではニューズウィーク誌が書いている。

日本初の「ゲイ議員」が誕生
2011年04月26日(火)18時39分

 統一地方選が終わったが、今回、日本で初めて同性愛者であることを公言する「ゲイ議員」が誕生した。東京・豊島区議の石川大我と中野区議の石坂わたるだ。

 性的少数者であるLGBT(レズビアンやゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の政治家としては、世田谷区議の上川あや(今回3期目の当選)が有名だ。彼女は生物学的な性別と本人が自認する性別が一致しない性同一性障害で、戸籍の性別も男から女に変えている。

 ニューズウィーク日本版は06年、「ゲイ in Japan」という特集を掲載した。「ゲイ人」レイザーラモンが「ふぉ~~」とやっていた頃である。その時に取材をさせてもらったのが石川で、当時は何人かの仲間と一緒に、ピアフレンズというゲイの若者向けの友達作りイベントを開催していた(ピアフレンズは今はNPO法人となり、その輪もずいぶん広がっている)。

 その後、NHKの番組に出演したり、千葉県の人権関係の委員を務めたりと少しずつ活動の場を広げる石川を見て、いつか政治家をめざすのだろうと密かに思っていた。

 しかし、同性愛者を公言して、政治の場に立つことはとても難しいことだと思う。色眼鏡で見られることもあるし、その当事者の権利拡大が第一義なのだろうと思われて支持が広がりにくい面もあるからだ(一般に同性愛者の割合は人口の5%くらいといわれる)。

 政策を訴えるうえで、多くの候補者は自らの経験や立場を強調する。例えば母親であること、介護の場で働いてきたこと、弁護士の経験……。すべて社会生活につながるものだが、これが同性愛者という立場の場合、どうしても「男が好きな男」「女が好きな女」と、いわゆる「性癖」としてとらえられがちだ。

 しかし同性愛をセックスの面からだけ考えるのは間違っている。結婚制度や家族制度という社会の基礎となるさまざまな制度がからんでくる話だし、お年寄りや障害のある人なども含めた広い意味での社会的弱者の問題にもつながる。

 世界的には同性愛を公言している政治家はけっこういる。仏パリのドラノエ市長(男)や独ベルリンのウォーウェライト市長(男)、米テキサス州ヒューストンのパーカー市長(女)、アイスランドのシグルザルドッティル首相(女、国家首脳として初めて同性結婚)などなど。彼らについての話を、ニュースや新聞で見たり読んだりしたことはあるはずだ。

 ところが、今回のゲイ議員誕生についてはあまりニュースになっていないような気がする。社会の変化の象徴として画期的な出来事だと思うのだが。

――編集部・大橋希

 石坂わたるさんや上川あやさんへの言及があるなど、英語媒体に比べてはまだマシ。でも「ゲイ議員」という言葉にものすごい問題が含まれてる。それは後述。

 英語版では PinkPaper.com (“Britain’s leading gay news website“) で Stacey Cosens さんがこんな記事を書いている。ちなみにこの内容は他の英語媒体での石川大我くんネタとほぼ同内容(少なくとも現段階では)。

Japan’s first openly gay politician wins seat
Taiga Ishikawa has become Japan’s first openly gay politician after winning a seat in the Tokyo ward assembly in local elections on Sunday.

Stacey Cosens
Tuesday, 26 April 2011

Taiga Ishikawa has become Japan’s first openly gay politician after winning a seat in the Tokyo ward assembly in local elections on Sunday.

Speaking to AFP he said: “I hope my election victory will help our fellows nationwide to have hope for tomorrow, as many of them cannot accept themselves, feel lonely and isolated and even commit suicide,”

“Many LGBTs, or sexual minorities, realise the fact when they are at elementary and junior high schools, many of which are operated by the municipality,”

“As a ward assembly member, I would like to reinforce support to LGBT children at schools.”

Ishikawa revealed he was gay in his book “Boku No Kareshi Wa Doko Ni Iru” (Where Is My Boyfriend?),”published in 2002.

The Toshima race saw 53 candidates compete for 36 seats.

 「ゲイ」という言葉が「ゲイ男性」を意味する傾向は英語にもあるけれど、日本語においてのそれよりは強くない。日常会話においてレズビアン女性を “gay” と表現することは珍しくない。そんな中、少なくともレズビアンを公表している尾辻かな子さんの存在がある状況で、 “Japan’s first openly gay politician” は明らかに誤報。

 「ゲイ」がレズビアン女性を指すことがほとんど無い日本語においても、この文脈で石川大我さん・石坂わたるさん・上川あやさんが言及されている中で(特に「初のゲイ議員」という、性的指向と政治についての歴史を記録するような記事において(記者も「社会の変化の象徴として画期的な出来事」として報道してるし))尾辻さんへの言及が無いというのは、レズビアン消去だし、歴史の消去。

追記:尾辻かな子さんは当選後にカミングアウトしたので当てはまらない、という(尾辻さんのことを知ってる人はほとんどみんな知ってるような知識をもとにした)意見がネットで出始めてるけれど、(1)だとしても自分が記者だったら尾辻かな子さんに言及するべきだと判断すると思わない? (2)「尾辻さんは当選後カムです( ー`дー´)キリッ」って言うことによってあなたは何を擁護しようとしているのか考えてみて。

 それに、「議員」と “politician” も微妙に違う概念でしょう。議員は任期のあいだだけの職業だけど、 “politician” (政治家)は任期に縛られない概念。 Wikipedia の “politician” 項目には:

A politician or political leader (from Greek “polis”) is an individual who is involved in influencing public policy and decision making. This includes people who hold decision-making positions in government, and people who seek those positions, whether by means of election, coup d’état, appointment, electoral fraud, conquest, right of inheritance (see also: divine right) or other means.

とあるし、日本語の「政治家」項目にも:

現代の日本では、「衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長の職」(国会議員、地方議員、地方首長)は公職選挙法の適用対象となる公職とされ、公職にある者、公職の候補者または候補者となろうとする者が政治家の代表的な存在である。

副知事、副市長、民間人閣僚、政治を志している人(政治活動家)も政治家と呼んで差し支えない。

とある。

 それを考えれば、 “Japan’s first openly gay politician” は恐らく東郷健。 “Japan’s first gay politician” は誰だろうね、クローゼットだったら私たちには知りようがない。「ゲイ議員」という言葉の問題もそこにある。恐らく「ゲイ」自認の政治家・議員はこれまでもたくさんいた。公表しない人ばっかりだっただろうけれども。

 こういう報道のミスは、記者だけが責められるものでもないと思う。というのも、日本語で出回っているネット情報においても大我くんを「初のオープンリーなゲイ政治家」扱いしているものはたくさんあるから。でも記者の仕事というのは自分の手に入れたソースの信憑性を吟味して、読者にとって信頼に足る記事を書くことのはず。

 こういう歴史の消去は、あたかもクィアの存在が政治の世界において何か新しい現象でもあるかのような、ターニングポイントでもあるかのような印象を与えるし、それは同時に「これまでずっと抑圧されていたけど、時代が変わりつつある」という物語を生産・再生産するものであって、問題が大きい。

 で、「初のオープンリーなゲイ政治家」という表現をさっき括弧にくくって紹介したけれど、ボクが今回の大我くんネタ報道のあり方と同様に最近気になっているのが、「オープンリー」という言葉の突然の広まり方。ここ1週間くらい(あるいはもうちょっと前から)「オープンリーな」という言葉がネット上のクィア関係者のあいだで広まっている。

 これは “open” という形容詞(「〜な」「〜だ」「〜い」と訳される品詞)が一度 “openly” という副詞(「〜に」「〜的に」「〜で」と訳される品詞)に変換されたのち、更にそれに日本語の「な」を付けることによって形容動詞(英語では形容詞)にもう一度戻されているという、すごくトリッキーな手順で作られた新しい用語なのだけれど、そのジャパングリッシュの変なエキゾチック感にボクが個人的に感じる違和感はまあ置いておいて、そんなトリッキーな手順をたまたま多くの人が今回一斉に思いついて使い始めたわけじゃないのは明らかだと思う。恐らく何らかの形で候補者あるいは支持者のあいだでオーガナイズされて使用されるようになり、広まったんだろう。

 それは全く構わない。言語は日々変わっていくものだし、言語資源が人々の世界観を反映し、また生成して行くものであるのは当然の、不可避の出来事だから。でもこのタイミングで「オープンリーな」という言葉が一気に広がったことの背景にはどんな効果が意図されていたのか、そして実際にどんな効果があったのかは、考える必要があると思う。

 「オープンなゲイ」(ゲイだけの話じゃないけど)という言葉ではなく、「オープンリーなゲイ」あるいは「オープンリー・ゲイ」という言葉を使うことのメリットは何だったのだろう。1つには、「オープン」という言葉が(既に「開店中」みたいな強い意味が存在する日本語において)「クローゼットではない」という意味として通じるかどうか分からないので、あえてちょっと変えることで「開店中」とか他の意味に誤解されるのを避ける、という効果があると思う。

 2つめに、「オープン」という言葉が既に多くの日本語話者にとって馴染みのある響きなので、そこで意味が切れることが明らかだから、「オープン・ゲイ」「オープンなゲイ」と言ったときに、残りの部分、つまり「ゲイ」の部分が聞き手にとって明確に聞き取れてしまう。逆に「オープンリー・ゲイ」だと、英語が多少分かる人でなければ、どこに切れ目があるのかも分からないと思う。「オープン・リーゲイ」という切れ目があると思う人も多いと思う。「オープン・リーゲー」とか「オープン・リーグ A」と思うかも。「サッカーの試合か何か?」みたいな。そうすると、英語が多少分かる人以外は「ゲイ」の話、つまり性的指向の話だとは分からずにこの言葉を受け流してしまうかもしれない。意図されてはいなくとも、そういう効果はあると思う。

 3つめに、「オープンリー」という新しい言葉を使うことで、そしてそれをツイッターやmixi等のネットを通して広めて行くことで、今回の政治家三名の選挙活動や当選が、何かとんでもなく新しい現象であるかのような、つまり前述の報道のあり方と呼応する形で、「日本のクィア政治の歴史」のターニングポイントを人工的に印象操作で作り出してしまう効果があると思う。

 既に多くのクィア系のツイッターアカウント(個人・団体)で「オープンリー・ゲイ」「オープンリーなゲイ」という言葉は多用されていて、それはもはや、何かひとりひとりノルマでも課せられているのかしらと疑ってしまうほど頻繁に使われている。それが、ボクにはすごく怖い。

 最後に、ちょっとこの話題とは関係ないのだけれど、上で紹介した PinkPaper.com という「ゲイ・ニュース・サイト」にコメントしようとしたときにアカウント登録を求められたのだけれど、そこに「タイトル」という項目があって、これが必須項目だった。「タイトル」というのは、ちょっと日本語でなんと呼ばれるものなのか分からないのだけれど、 Mr. とか Mrs. とか Miss とか Prof. とかの、肩書きや性別、婚姻状況を表す、姓名の直前に付けるアレです。

 で、 PinkPaper.com 、 “Mr. / Mrs. / Miss / Rev. / Prof.” あと何だったか忘れちゃったけど、そういう選択肢しか用意していない。つまり、 Prof. (教授) や Rev. (師 – 聖職者用) などプロフェッショナルな職業に就いていない人間はジェンダー化されたタイトルを選ばないとユーザー登録が出来ず、コメントも残せないという設定になっている。「ゲイ・ニュース・サイト」だろう? とびっくりした。

短編小説『さようなら、片岡玉子』(野比玉子・作 村江輝夜・あとがき) – 『ドラえもん』二次創作文章第三弾

全文をMASAKI.WEB44.NETにうつしました。

共生ネットによる『セクシュアル・マイノリティへの対応に関する要望書』およびそれにまつわる議論について

 “共生社会をつくる” セクシュアル・マイノリティ支援全国ネットワーク(以下「共生ネット」)が『被災地におけるセクシュアル・マイノリティへの配慮ある対応について要望書を提出しました』という記事で、同団体が緊急災害対策本部および内閣官房長官の枝野幸男さんに提出した旨を報告し、要望書(以下「要望書」)本文の一部を公開しています。

 この要望書に関して、わたしは一般公開よりも一足早く、共生ネットさんから直接連絡を頂いていました。というのも、わたしは今回の地震・津波の報道を目にしてすぐに、LGBTであることによって被災地(特に避難所・仮設住宅生活)においてどのような困難が上乗せさせられるのかについてツイッター上で意見を募り、のちに(2011年03月11日(金) 19:00:00に)『被災地のLGBTが望むこと』というwikiサイトを立ち上げ、様々な立場の方々に意見を書き込んで頂いていました(当時のトップページはこちらです)。当初は出来るだけ早く意見を集約しようと「3月16日(水)の午前9時まで」という意見書き込みの締め切りを設けていました。それは、避難所等のいわゆる「現場」で使える資料(想定していたのは、A4サイズ1枚の、専門用語等を排したわかりやすいガイドラインの作成です)を出来るだけ早くまとめたいという思いでしたが、被災地のLGBT当事者含め様々な方々のご意見を頂戴する中で、「情報内容」「配布形式」「配布対象」「配布時期」の再検討が必要であることを認識し、意見集約・配布を急ぐのではなく、各方面との連絡を取りながら今後数ヶ月以上続くであろう避難所生活・仮設住宅生活を長期的に見越した資料の作成のために、提言内容の精査及び改善を行って行くことにいたしました(これらの変更は3月16日午後10時15分にwiki上で発表致しました)。

 さて、当初より多くの方に意見を書き込んで頂くためにジェンダー・セクシュアルマイノリティ関連のメーリングリストに案内を流したのですが、そのうちの1つが共生ネットさんでした。運営の方からお返事を頂き(12日午後9時14分)、共生ネットでも緊急災害対策本部および内閣官房長官宛の要望書を作成中である旨教えて頂きました。また、その際『被災地のLGBTが望むこと』を参考資料としたいとのことで、許可を求められ、了承しました。了承した理由は、緊急災害対策本部および内閣官房長官宛の(のちに、内閣府、NGO会議、関連委員会・省庁にも提出する旨連絡を受けました)要望書を出す「政治要請」としての活動と、『被災地のLGBTが望むこと』で目的としていたガイドライン作成は大きく目標を違えるものですが、共生ネットさんがいずれにせよ政治要請をすると決めているのであれば、多くの人たちが知恵を出し合ってきた『被災地のLGBTが望むこと』の知見を全く提供しないよりは、それを参考にして頂く方がより良いものができると判断してのことです。これによって、政府への申し入れ・当面の政府関係機関への配布は共生ネットさんにお任せし、『被災地のLGBTが望むこと』では継続して意見の集約と提言の改善を行うことにいたしました。

 内容および要望書内の「謝辞」の文面等について共生ネットさんとやり取りを重ね、現在のかたちで合意に至り、共生ネットさんが要望書の提出を行いました。しかし、当初「内閣府、NGO会議、関連委員会・省庁」宛ということであったはずの要望書は、大規模なジェンダー・スタディーズ系のメーリングリスト(他にも媒体はあったかもしれませんが、私の知る限りではメーリングリストのみでした)を通して、また転載・拡散を呼びかける形で、公表されました。要望書をまとめ、文書化し、公表したのは共生ネットさんであり、その責任が一切『被災地のLGBTが望むこと』に書き込みをした人々(わたし自身を含め)に無いことを要望書内「謝辞」において明確にして頂いてはいましたが、要望書内のいくつかの項目は『被災地のLGBTが望むこと』の内容と酷似しているものもあり、wiki上で頂いたコメント(配布・配信の時期や方法に慎重になるべきとの声)を鑑みると、今の時点で要望書全文の転載・拡散を呼びかけることは、そもそも『被災地のLGBTが望むこと』にコメントないし本文書き込みをして下さった方々の意志をないがしろにすることであり、更に、慎重さを求めるコメントにあるような懸念が現実になるのを後押ししてしまうことになると判断し、共生ネットさんに再度ご連絡を差し上げ、当該メーリングリスト上で再度共生ネットさんより「1ページ目にある情報のみ転載・拡散可能」との旨を流して頂けることになり、迅速に対応して頂くことが出来ました。また、共生ネットさんが今回このタイミングでの情報発信を試みた背景にあるお考え、メンバー等の経験、その他につきましてもご説明頂きました。

 わたしは依然、1ページ目のみにせよ、このタイミングでのこの形での情報拡散には賛成は出来ません。また、内容に関しましても、『被災地のLGBTが望むこと』に書き込まれた「『LGBTの代表』である人を置かない」という項目は反映されず、代わりに『災害対策本部は、セクシュアル・マイノリティに関する専門知識や支援経験のある人を登用し、意見を聴取してください』」という項目が入るなど、いわゆるトップダウンの傾向が強まったことには危惧を感じています。しかし要望書はあくまで共生ネットさんの名義ですので、私に出来るのは懸念をお伝えするところまでです。現在は、「全文をインターネットで公表する際に『被災地のLGBTが望むこと』への謝辞文面をどうするか」といったところで継続して話し合いをしています。参考資料としての利用を了承した者の責任として、どういった形が最も望ましいのか、模索しているところです。

 さて、今回この共生ネットさんの要望書に関して、小田中直樹さんという方が個人ブログにて意見を書いています。「【3/21】タイミングの大切さについて。」および「【3/25】「疑似インテリゲンチャ」またはハンパな全能感の哀しみ。」がそれにあたります。これらは、小田中さんの言葉を借りれば「3/17(引用者注:要望書の提出日)というのは、やっぱりまずいと思う」という懸念による、要望書への批判です。その点(タイミングがよくないのではないか、という懸念)だけにおいて言えば、わたしも小田中さんに同意しますし、わたし自身、今回wiki上で様々な人のコメントや書き込みを頂く中で、自分が起こすアクションについて慎重になる必要性を強く感じました。ただ、わたしは、拙速な行動を予定していたことを反省したからと言って、それを踏まえたわたしが「タイミング」に関して最終的に下す決断が本当に正しいものになる確信はありません。その点において、小田中さんにはその「タイミング」を見極める能力があるという想定が小田中さんの批判から見え隠れすることに、危惧を感じます。

 特に気になるのは、「戦時」「戦後」「復興期」およびその段階的発展における「余裕」の変化に関する小田中さんの理解・考察が、そもそも(団体なり地域なり社会なりに)余裕が無くなった時にその重要性が優先順位において押し下げられ、無視されたり切り捨てられたり犠牲にさせられるようなパターンを繰り返し経験してきたセクシュアル・マイノリティの歴史および生活経験を、同様のロジックを用いて再生産するものだと思うからです。このような経験の中、セクシュアル・マイノリティの権利や尊厳を求めることは、往々にして「贅沢」「自己中心的」と言った言葉で非難を受けて来ました。

 小田中さんは次のように言います。

保健室では、残り少ないストーブの灯油を気にしながら、臨月の妊婦さんが震えていました。教室の床にブルーシートを敷いて、老人の皆さんが、どうにかゲットした段ボールのうえで毛布にくるまって寝てました。そういうタイミングで、例えば地元紙があの提言をニュースとして載せたら(ありえなかったと思いますが)「なに言ってんだ、この贅沢者が」になる危険もあったでしょう(まだ「戦後」段階だから、たぶんそんな余裕はなく、大丈夫だったろうとは思いますが)。

3)セクシュアル・マイノリティの健康ニーズについて知識のある医師やカウンセラーを配置してください。
==>どこにいるんだ、そんな人? たしかに仙台にもいるが、自分の避難で精一杯。避難者全体の健康ニーズすら、ボランティアでまわってくるお医者さんのおかげで、どうにかカバーできたのである。それでも、暖房もないなかで、インフルエンザの子供たちが避難していたんだぞ。ぜーたく言うな。

もしも提言するんだったら、まずは「性的少数者」だけではなく、そういう「全体」に想いを馳せて(できれば「思いをはせてからにして」)ほしい・・・それが、ぼくの期待です。もちろん、それはネットワークの「しごと」ではないかもしれませんが、しかし有限のリソースを配分する提言をするのであれば、全体に目を配らないと説得性が減少します。

 「臨月の妊婦」「子供たち」は、(現実にはセクシュアル・マイノリティと無関係ではない人々であるにも関わらず)セクシュアル・マイノリティがそこから周縁化されているような規範に基づく価値体系(ヘテロセクシズム)において保護を受けやすい主体です。小田中さんは、「性的少数者」と「全体」を対置させるレトリックにおいて、「臨月の妊婦」「子供たち」を「全体」の側に、そして「贅沢者」「ぜーたく言う」者を「性的少数者」の側に配置するような典型的なヘテロセクシズムをなぞりつつ、セクシュアル・マイノリティの要望を「説得性が減少」すると評価します。

 しかし、要望書がこのタイミングで提出されたことを原因として「説得」させられなかった人、というのは、(小田中さんが示している限りにおいては)小田中さんご本人のみです。自分が説得させられなかった、納得しなかったという事実を、主語を提言者(共生ネット)に転換することで、あたかも要望書あるいは要望書の提出の手つき(タイミング含む)こそが疑いなく「説得性」の低いものであったかのように再構築するレトリックを実践しています。差別において、明確な差別主義者よりも時に厄介なのは、「私はあなたのような人を差別したりしないんだけど、周囲の人はどうか分からないから、こうしなさい」とアドバイスを寄越すような自称博愛主義者です。「私」が「アドバイス」出来る立場にあると思えること、「私」が「差別したりしない」人かどうかを「私」が決められると思えること、それ自体が特権的な立場にある者の特権であって、その特権の行使をしつつも「差別」の本当の犯人を「私」の外部に配置することは、差別のアウトソーシングです。

 私は、もちろん、個人的には共生ネットの要望書の内容に不備があると思いますし、タイミングや拡散の方針については最善ではなかった、むしろ弊害を引き起こしうるリスクの高いものであったのではないかと思います。その点では、小田中さんと同様の懸念を感じていると言っていいでしょう。しかし、それは、私がそう思っているだけなのかもしれない。共生ネットには東北地方も含め様々な地域の出身者、様々な年齢のメンバー、そして様々な立場を持ち、同様に様々な人々・団体との関わりを持ったメンバーが所属しています。私は、そのような多様な団体が同団体名義で決定した今回の要望書公表に関して、異論はあれど、謙虚にならざるを得ないと認識しています。そして、先に言った通り、「贅沢」「余裕が無い」といった理由によって黙らされ、当然の権利を与えられず、尊厳を踏みにじられて来たセクシュアル・マイノリティの歴史と生活経験に思いを馳せれば、今回の小田中さんの批判における論理の立て方は、たとえその批判内容が社会構成員の大多数にどれだけ妥当だと認められようと(「タイミング」に関してのみであれば、何度も言っている通り、私自身も小田中さんに同意しています)、まぎれもなくヘテロセクシズムに根ざす側面がありますし、また、ヘテロセクシズムをなぞることで、その再生産に寄与してしまうものでもあると思います。

 セクシュアル・マイノリティが「余裕のあるときだけ考慮してもらえる」ような立場に押し込められて来た歴史をともに認識した上で、どのようにしたら今回の要望書のようなアクションがより有効にセクシュアル・マイノリティの権利や尊厳の回復・尊重を実現出来るのか、小田中さん含め、共生ネット含め、わたし含め、様々な立場にある者が考えることが出来ればと思います。

*追記*
 なぜか(設定かな?)言及されてもトラックバックが届かない状態みたいなので、言及してくださった font-da さんのブログへのリンクを貼ります。