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わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム【再掲載】

この記事は2010年1月20日に WAN (Women’s Action Network) のサイトに掲載された「【ライブ中継への反響・その1】わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」という記事の全文です。[元記事 @WAN]

本文

「一般の人にわかりやすい言葉で話して下さい」と言われる経験は、私たちフェミニストには日常茶飯事だ。そう言われるたびに私はその言葉に憤りを感じ、口をつぐむ。時には相手に噛み付くこともあるけれど、そこまでして相手に分かってほしいと思っているかというとそうでもない。何が頭に来るのかと言ったら、それはフェミニズムに「わかりやすさ」を求め、「わかりやすくないなら私はそれに賛同しないぞ」と、言外にほのめかす態度なのだと思う。そしてまた、自分がわからないということを「一般の人」という安易なカテゴリーを使って、あたかもかれらを代弁しているかのような振る舞いで当然のように開き直っている様子も、苦手だ。「一般の人」とはいったい、誰のことを言っているのだろう。

「主体がどうとかいう話には興味がないんですよね」とか、「そういう議論に何か意味があるんですか?」とか、あるいは「それは一般の女性の役に立たない理論だと思います」とか、そういうことを言われると、抽象的な議論はどこかに隠居して細々とやっていきたいものだわ、と思ってしまうのだけれど、しかしそれでも私にとってのフェミニズムは、誰かにとって「興味がない」ものだったり、「何」も「意味が」ないようなものだったり、「一般の女性」とやらにとって「役に立たない」ものであったとしても、私の人生や家族、友人の人生にとって重要だと思ってやっていることだ。たとえそれが他のフェミニストから拒絶されたとしても。

私が常日頃からこういうことを言われるのは、私にとってフェミニズムとクィア理論が密接に結びついているからかもしれない。フェミニズムは必ずしも異性愛女性のことだけを考える思想ではないし、クィア理論は必ずしも同性愛者やトランスジェンダーのことだけを考える思想ではない。両者の射程は思ったよりも広く、そして互いに裏切りつつ、協力し合い、反目しつつ、アイディアを盗み合う。その両方をきちんと分けられない私にとって、「一般の女性」や「一般の人」という言葉はほとんど意味を持たない。なぜならそういう言葉が発せられるとき、ほとんどの場合、異性愛の、貧困ではない、障害のない、人種・民族的にマジョリティの、先進国の人を指しているからだ。私のフェミニズムはそういう人たちの利益のためにあるのではないし、そういう人たちに「わかりやすい」言葉で説明するような義理も、動機も一切ない。むしろある種のマジョリティを「一般」というレトリックで欺瞞的に表現するその態度こそ、私が批判したいと常日頃思っているようなイデオロギーだ。

フェミニズムは、あるいは、私が信じ、惹かれているタイプのフェミニズムは、「一般」に迎合したりしない。これまでも私の尊敬するフェミニストたちは、一般を挑発するような言葉を作り出したり、反感を買いやすい主張やパフォーマンスをしたり、そして案の定強い反発を受けて来た。その1つ1つのやり方や戦略、その成果に関しては評価が分かれる所だし、私も必ずしもそれら全てに同意するわけではないが、それらの行動の背後にある情熱のようなものには敬意を表したいと思っている。

その点で「おまんこシスターズ」という言葉を打ち出した上野千鶴子氏、多くのフェミニストに総スカンを食らってもテレビで話し続け、世間から罵倒や攻撃を受けて来た田嶋陽子氏、社会に既に受け入れられている言語をずらす実践として “womyn” や “grrl” といった言葉を積極的に使って来たアメリカのフェミニスト(の一部)など、多くのフェミニストの態度を、その評価は横に置いておくにしても、私は尊敬する。

しかし先日の WAN x ジェンダーコロキアムの共催イベント、「男(の子)に生きる道はあるか?」において、私はまたもや、絶望することになった。「男性に通じるフェミニズム」を提示したい、「男子に楽になってもらいたい」という澁谷知美氏、「男性への理解と愛情を基に」本を書き、それに「反発が驚く程なかった」ということを嬉しそうに語る両氏。

もちろん世の中を変えようというときに、特に社会政策を変えようというときには、多くの人の賛同を得る必要がある。しかしフェミニズムが容易に「一般」に受け入れられるとき、それは必ずしもフェミニズムの思想の発展や広がり、普及を意味するとは限らない。「一般」受けする思想には、常に危険が伴う。それはジュディス・バトラーがお茶の水女子大学に講演にやって来たときに、彼女の文章は難解でエリート主義に陥っているのではないかという質問に対する返答として、抵抗なしに受け入れられる言説はつまり現状既に社会に織り込み済みの言説であって、それでは理解可能性の領域の拡大を狙うことはできないと言っていたこととも共鳴する。

私もまた、2008年に NWEC でワークショップを開く際、前日の打ち合わせにたまたま同席した方に言われたことがある。「そんなに難解な議論をしたのでは、理解を得られない。理解されたいのでしょう? だったらもっと一般向けの話し方をしなくては」と。

確かに、単純なことをわざわざ言葉をこねくり回して難解にする必要はないし、そんなパフォーマンスは私も嫌いだ。しかし、そもそも「一般的」とされるような現存の言語を用いて語ることは、正にその言語が同性愛嫌悪的でトランス嫌悪的で女性蔑視的であるときに、ほとんど不可能なのである。その点において私は既にある程度語る言葉を制限されているのであり、更にそれを「一般向け」に翻訳せよというのは、二重の暴力を行使することを意味する。

過去十数年のあいだクィア運動の中で培われて来た言語、更に言えば過去1世紀(あるいはそれ以上)のあいだフェミニストたちやゲイ・レズビアン運動の担い手が紡ぎだして来た言語、黒人解放運動や障害者運動がなんとかして、あらゆる言葉をつなぎ合わせ、作り出し、また本来の意味から引き剥がし自らの言葉に変えて来た言語。それらは、私たちが日常を生き延びるために、私たち自身の人生をよりよく理解し、よりよいものにするために、日々の実践の中から生み出された言語である。私は、あらゆる理論はそのように作り出されたと思うし、またそうではない理論には魅力を感じない。わかりにくいフェミニズムこそ、私の理解可能性の領域を広げてくれるし、社会の変化への希望を感じさせられる。

だが、澁谷氏の、そして時に上野氏の今回のイベントにおける発言には、絶望しか感じられなかった。「女子も辛いが、男子も辛い」という澁谷氏の発言は(それが実際に現実を反映していることは確かだが)あまりに迎合的だと思うし、「女というところから出発して、ジェンダー規範に縛られた人間を対象にし、更にそれを男にもおろしていく」実践としての『平成オトコ塾』も、その実証研究としての評価は横に置いて言えば、なぜそんなことをする気になったのかと不思議でしかたがない。それは、上野氏の「男性への愛」という話にも感じたことだが、何よりも「なぜ、フェミニズムがずっと批判し、拒否すべく尽力して来たような『母』の位置を、自ら体現してしまっているのだろう」という疑問が頭をよぎる。

上野氏は他にも、フェミニズムを「おばさん」の言説であるとし、男受けのする「娘さん」を降りて「おばさん」になる実践とフェミニズムを接続している。しかしそもそも「娘さん maiden 」と「おばさん crone 」とを分けるジェンダー規範を批判して来たのは、紛うことなきフェミニズムではなかったか。フェミニズムの歴史的蓄積はどこに行ってしまったのか。

新春企画ということで大々的に宣伝もして、ネット中継までして、録画したものをアップロードまでして、これが2010年段階の日本のフェミニズムの集大成なのかと思うと、絶望しか感じられないのは仕方がない。ただ、これが日本のフェミニズムを代表するわけではない、代表させてはならないということを私たちは肝に銘じて、フェミニズムの実践をして行かなければならないだろう。絶望ばかりもしていられないのだ。

上の記事を WAN サイトに投稿しようと思ったきっかけ

[元記事 @フェミニズムの歴史と理論]

先日 WAN (Women’s Action Network) の「よみもの」欄に寄稿したところ、早速受理され、今日既に掲載してもらっているようだ(すんげー早い!)。タイトルは「わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」というもので、 1/13 に行われたジェンダーコロキアムと WAN の共催イベント『男(の子)に生きる道はあるか : 新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美』の映像を観ての感想を書いた文章。ちなみにその映像はここをクリックするとアクセス出来ます

よろしかったら他の方が書いている感想もどうぞ。(順番はアップされた順、たぶん)

そもそもボクは WAN の問題については積極的にネット上で何か言うつもりはなく、個人的なブログにしろこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにしろ、一切文章をアップするつもりはなかった。それは、そもそも動画の内容が脳天を突き破るような、あるいはじっくりと時間をかけて肉を溶かす猛毒のような、さもなくばその両方であり、書く気力も出ない状態だったから。 tummygirl さんが先陣を切ってブログ記事にしているのを横目に、「あぁ偉いなあ。そしていい文章だなあ」と涙ぐむだけのあたし。

そんなときに山口智美さんに「っていうかマサキくんって WAN の呼びかけ人? 賛同者? だったよねー」と言われて、固まる。「えー!? あーーー、そうだったかもー!」くらいの記憶力(<研究者志望として、あるいはそれ以前に運動に携わるものとしてダメ)で、見事に忘れていた。ネット上を検索しても当時の呼びかけ人のリストが見つからず、でも確かに智美さんはリストにボクの名前を見たと言うし、呼びかけ人にだけ配信されて来たはずの準備会MLというものも、しっかりメールボックスに届いていた・・・。

「全くもう、バカだなぁ WAN は(笑)」くらいで、後はもうスルーしようと思っていたのに、何と自分が呼びかけ人として参加している団体だったなんて! という驚き、というかもはやショックで、これはもう、呼びかけ人として賛同した者の責任として何かしないわけにはいかないだろうと思った。

今でもボクは WAN はつぶれればいいとか破綻しちゃえばいいとか、あるいは存在を忘れられてしまえばいい(プレゼンスが下がればいい)とか、そういう風には思っていない。使い方次第でいかようにも使えると思うし、リソースが集まっているのはある意味では有益なこともあるだろう。その分例えば、アマゾンのアフィリエイトを使っている B-WAN のように、リソースをこぎれいにスマートにまとめられるシステムを利用しているからこそ、そこからこぼれ落ちる情報(アマゾンに無い本とか、自費出版の冊子とか)が更に周縁化されて行き、作り手も減るという問題はあるけれど。

とにかく当時呼びかけ人になった時のスタンスと、今のそれは、大して変わらない。 WAN に日本のフェミニズム、あるいは日本語話者による/対象のフェミニズムを代表させてはならないし、そういう意味で WAN が大きくなって影響力を持つようになることは避けたい。けれどネットを検索すればとりあえず WAN くらいはひっかかるよ、という程度に、つまりとりあえずのきっかけとして、とっかかりとして WAN に出会う、という程度になって欲しいという希望はあるし、同時に、昔からフェミニズムに関わって来た人たちにとっても、より「使える」リソースになって欲しいとも思っている。ボク自身が今回 WAN に投稿したのは、 WAN におけるそういうリソース作りへの関与を怠って来た自分に対する反省の意味も強い。

もちろん何が「使える」リソースで何が「使えない」リソースなのかというのは議論の余地があるけれど、それはボクが信じる限りのところを、口を挟んで行く(投稿したり、意見したり?というところで)という方法しかないかなと思っている。だからこそ今回は、例えば「 WAN のやったイベントは、異性愛中心主義的だった!」と思っても、呼びかけ人であるボクは外部のブログからそれを批判することは出来ないと感じた。やるなら内部で、つまり WAN のウェブサイト上でやるべきなのだし、恐らくこれまでもやるべきだったのだ。

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「カムアウトできる」「カムアウトできない」というレトリックの問題

この記事は、インデペンデント・マガジン Pe=Po vol.1 に掲載されたものの全文です。ネットからも購入出来ますので、他の記事も気になるという方はどうぞ買ってみて下さい。

「親にカムアウトしたいけどまだ経済的に独立もしていないし……」、「友達はみんな知ってるけど、会社では絶対にカムアウトなんて出来ない……」、「同級生の数人にはカムアウトしてるけど、信頼出来る人だけ。他の人には絶対に言えない」などなど、カミングアウトにまつわるエピソードはボクたちのコミュニティに溢れている。それに対して老婆心を働かせたゲイやレズビアン、バイがこう言う。「誰彼構わず言う必要はない。自分がいいと思った相手に、いいと思ったときにだけカムアウトすればいいんじゃない? 人それぞれ事情があるしね」と。

もちろん老婆たちは本当に相手のことを思って言っているのだろう。しかしここで語られる「事情」とは何だろう。保守的な町に住んでいること? フォビアに満ちた職場で働いていること? 学校という閉塞的な場所で生きていること? 長男であること? 既婚者主婦であること? その事情を無視してカムアウトしたらどうなるだろうか。親から見放されたり、解雇されたり、いじめを受けたり、町を追い出されたり、離婚されたりする? 確かにその可能性はあるし、それを恐れてカムアウトしない人を蔑んだり「度胸がない」と見下したりすることはバカなことだと思う。だから当然「カムアウトしなさい」とか「カムアウトできないなんて、自分に自信がなさすぎる」とか「もっとみんながカムアウトすれば世界は変わるのに、しない人がいるからダメなんだ」とか、そういう、「事情」に思慮を働かせられない人の発言には辟易する。その点ではボクも老婆と同じ意見だ。

しかしボクが言いたいのは、「事情があるのだから仕方ないよね」ということではない。むしろこの記事でボクが批判の対象としているのは、正にそういう「しょうがないよ」みたいな上から目線の同情的な発言だ。

ボクは、クィアにとっての「事情」とは、強制異性愛社会に住んでいることや生物学的な性別に〈わたし〉の振る舞いやアイデンティティを追従させなければ制裁を受けるような状況だと思っている。だから「黙っていればヘテロだと思われる社会」なんて本当に嫌で嫌でしょうがないし、どうにかなって欲しいと思っている。しかし同時に、「黙っていればゲイだと思われる社会」も嫌だ。それはまた一つのカテゴリーであって、非ヘテロ男性という「ジェンダー・セクシュアリティの秩序の中では理解しがたい存在」を簡単に理解しやすくするマジック・ワードでしかない。しかもそのカテゴリーに乗った所で差別は全然残っているし、二級市民として扱われるだけだ。そんな詐欺みたいなカテゴリーに誰が入るか、と思う。そもそも「ゲイ」なんてボク自身の内側から出て来た言葉でもなければ、外からやって来てボクが快く迎え入れた言葉でもない。(*1) 「男」だって「アジア人」だって、世界はボクに選ぶ権利も与えてくれなかったじゃないか。「黙っていれば男だと思われる社会」も出来ることなら勘弁してもらいたいし(*2)、「ゲイだって言ってるのに『アジア人ゲイ』としかボクを扱ってくれない社会」なんて死ぬほど嫌だ。

つまり究極的に言えば、「アイデンティティを想定・強制されること」それ自体が生活に差し迫ってくる問題としてボクに嫌な思いをさせている「事情」なんだ。そんなボクにとって、「ゲイ」という言葉が広まっており人々もある程度受け入れる体制が出来ているような空間にいることは、必ずしも嬉しい経験じゃない。人は「ゲイなんですか?」とか「オカマちゃんですか?」と聞いて来るし、一言も言っていないのに「え、だってあなたゲイでしょ?」とか言われたり、言わないでいると勝手に邪推されたり噂されたりする。すごくカムアウトを求められている感じだ。「お前のセクシュアリティを言語化せよ、私たちに分かる語彙でシンプルに説明せよ」という圧力を感じてしまう。それはきっと、「ゲイ」という語彙が共有されているコミュニティだからこそ、むしろそこが重力の場みたいにボクを引きずり込もうとしてくるような、そういう感じ。

これがボクにとっての「事情」だ。つまり「あぁ、あなたは(ヘテロではなく)ゲイなのね」、「あぁ、あなたは(日本人ではなく)在日コリアンなのね」、「あぁ、あなたは(健常者ではなく)障害者なのね」、「あぁ、あなたは(白人ではなく)有色人種なのね」という分け方そのものが気に食わないのだ。相手の用意したカテゴリーに乗っかること、そしてそれに乗っからないと「差別されてる人だから、優しくしてあげよう」とすら思ってもらえないという脅迫めいたアイデンティティ要請がものすごくうるさい。そもそもそういうカテゴリー分けの仕方・枠組み自体が西洋近代的な思想の影響を受けたものであって、少なくともボクはそんなものを受け入れた覚えはない(*3)。「自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、隠さざるをえないような状況にしている、強制異性愛社会」と Macska さんがブログで言っているが(*4)、更に言えば、強制異性愛を含む(西洋近代的)文化的規範は、自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、〈決定し、包み隠さず告白すること〉を要求するような(そして、そうしない限り差別され続けるような)状況も同時に作り出しているのだ。

だから、そういう事情に辟易しているボクは、「カムアウトしないとまともに取り扱ってもらえない」ような社会やコミュニティも、すごく嫌い。それは「カムアウトできない社会・コミュニティ」と言われるような場所と同じくらいにボクを引き裂く。ゲイだと言ったら不平等な扱いを受ける社会と、ゲイだと言わないと平等の恩恵を受けられない社会って、単なる強制異性愛社会の裏表じゃないか。カムアウトしないと事態が解決に向かわないという状況は立派な「強制異性愛社会という『事情』」だ。そういう「事情」のある人は、カムアウトだってなんだってしたらいいと思う。カムアウト実践を選ぶことも、カムアウトしないことを選ぶことも、両方とも各人がそれぞれ自分の状況を考えて「このフォビックな社会の中ではマシ」な方向へと進むための生き延びる道でしかないのだもの(*5)。

「カムアウトしない方がいい場合もある」という主張への反論として「それはホモフォビックな社会の中ではマシというだけのことでしょ」と言う人もいるが、そんなこと言ったら「カムアウトした方がいい」という状況だって、「ホモフォビックな社会の中ではマシというだけ」だ。社会がホモフォビックじゃなかったら、そもそもカムアウトする必要だってないし、クローゼットに入る必要だってないのだから。罠みたいなもんだ。その罠にはめられているボクたちは、当然、カムアウトしたって、しなくたって、いい。どちらの選択肢が「よりよい」のかというのは、その人の周りの「事情」のあり方によって変わってくるはずで、その「事情」というのは「カムアウトできる」「カムアウトできない」という〈可能性〉のレトリックで説明されるべきものではないと思う。「カムアウトすることの方がカムアウトしないことよりも本人の利益を増やす」と判断できる状態だったらカムアウトする方がいいだろうし、逆であればカムアウトしない方がいいに決まっている(そんな判断はおそらく多くの人が自分で日々行っていることであって、ボクがこんなところでいちいち説明するほどのことでもないのだけれど)。とにかく、「カムアウトしない」ということが「できない」という〈可能性〉のレトリックで説明されることには、ボクは全然賛成できない。

「カムアウトすることで得られるものが失うもののよりも多い社会・コミュニティ」と「カムアウトしないことで得られるものが失うものよりも多い社会・コミュニティ」というのは両方存在するし、時期や集団の大きさ、年齢層、階級やミクロなレベルでの人間関係、そしてそれらのこれまでの歴史的変遷によっても状況は異なる。そしてその両方とも強制異性愛の異なるバージョンの上に成り立っている状況でしかない。どちらの方がいいとか悪いとかは普遍的な判断が出来ないし、自分にとってどちらの方がマシかしか言えない。あるときある場所ではカムアウトした方が「マシ」かもしれないし、その次の日に違う人たちと時間を過ごしているときはしない方が「マシ」かもしれない(*6)。そのどっちの時間が本人にとって喜ばしい時間になるかは、本人が事後的に判断することであって、議論をする人間によって事前に予想が立てられるものではない。

ましてや、「運動全体のためにはどちらが好ましいか」という疑問には、回答などないはずだ。そもそも問い自体が強制異性愛社会の1つのバージョンの枠組みに則ってしまっていて、回答はコインの裏表にしかなり得ない。そもそも「運動全体」の利益とは、いったい誰の利益なのだろう。もちろん「現在この社会・コミュニティでは人はセクシュアリティのカテゴリーに入れられてしまうのであって、それを拒否したら生きては行けないし、権利も何一つ手に入らない。だからカムアウトする利益の方が多いのだ」という主張が持つ正当性には納得が行く。しかしそれはあくまでその地域、その時代にその文化・政治・宗教・道徳的背景があるから言えるだけの話であって(更に言えば、それはある程度西洋近代的で先進国的で都会的でエリート的な事情だとボクは思う)、「他の場所でもそのような状況になるべきだ。まだそうなっていない地域、つまりカムアウトしない利益の方が大きい地域は、遅れていて、クィアにとっては生きづらいはず。だから変わるべきだ」とは言えない。カムアウトしなくても(一部の)規範から外れて生活することは出来るし、そういう人がいることを周りも当然のように知っていたりする。ただ、それに名前を付けないだけだ。名前を付けたら「差別対象」として、あるいは「差別対象だから、差別してはいけない人たち」として新たに周囲の人たちの目に現前してしまうことになって、それまであった「生きやすさ」が消えてしまうかもしれない。カムアウトしない方が解放的な可能性もあるんだ。

また、カムアウトする利益の方がしない利益よりも大きいように見える社会・コミュニティにおいても、そこに住む人々全員にとってそうであるとは限らないし、あるいは、そこで語られる「利益」自体を望んでいないとか、カムアウトすることによって失われるものを失いたくないとか、様々な理由でクローゼットを貫く人もいるだろう。しかし彼らのそれぞれの状況を「事情」と呼び、彼らのその判断を「苦渋の決断」であるかのように語るのは、あたかも自分たちには「カムアウトすることの利益の方が大きい」という「事情」(!)がないかのように振る舞い、自分たちの方が他の人たちよりも「自由な判断」(!)が出来ているかのように語ることだ。

クローゼットでいることは権利ではない、というサラ・シュルマンさんの文章が前述の Macska さんのブログで紹介されていた。クローゼットでいないと暴力を受けたり解雇されたり社会生活を送れなくなったりする社会では、そう、クローゼットは「不自由」だ。自分が非ヘテロであることを言葉に出すことが出来ないのは、不自由極まりない。しかしボクが欲しいのはカミングアウト出来る社会ではない。ボクが欲しいのは、非へテロであることを言葉に出す必要もないほどクィアな世界であって、そこではもし口に出しても「カミングアウトした」などと仰々しく取りざたされたりしないし、「あたし明日数学のテストなんだよね」「あ、そ」くらいにしか関心を払われたりもしないだろう。そう考えると、一方で、カミングアウトだって権利ではない、不自由だ。なぜ言わなければいけないのか。なぜ「カミングアウト」などと大げさに、あたかも世紀の大告白かのように扱われなければいけないのか。カミングアウトしなければ生きて行けないとは、なんて不自由なんだろう。

*1 ボクは自分の性に関する事柄を言葉で説明したりすることを既に(複雑すぎるから)あきらめているので、「ゲイ」という言葉に単なる文化的なスタイル以上のものを求めていないのだもの。「ゲイ」とはボクにとって一つの生き方であって、振る舞い方であって、コード。「男が男に惹かれること」とか「男と男がセックスすること」と「ゲイ」という言葉は少しは関連しているかもしれないけれど、それは「若者であること」と「ケータイを持っていること」くらいの関連性にしか感じられない。

*2 現代社会で「男」と扱われることは「女」に比べて得することばかりなのだけれど、だからと言って気持ちよく「はい、男です」と言えるわけじゃない。

*3 補足しておくと、ここで「西洋近代的」と言っているのは別に「西洋の近代に特有のものであって、それ以外のところには存在しない」という意味ではなく、「西洋近代のイデオロギーに関係することがら」というくらいの意味。つまり、西洋と呼ばれる地域にだって存在しないかもしれないし、東洋だろうがどこだろうが存在するかもしれないようなものであって、日本の中にだってものすごくいっぱいある。例えばアメリカのモンタナ州にはあんまりないかもしれないけど、日本の中野区にはがっつりあるかもしれないし、ある宗教のコミュニティの中ではあんまりないかもしれないけど、ある人種コミュニティのなかにはがっつりあるかもしれない、みたいな。

*4 『カムアウトをしない「自由」はない。クロゼットは「権利」ではない。』「*minx* [macska dot org in exile]」 http://d.hatena.ne.jp/macska/20090818/p1. retrieved September 27, 2009.

*5 もちろん時にはアクティビズム的に、戦略的にカミングアウトを選択することもあるけれど。

*6 例えばボクの知り合いに50代の人がいるのだけれど、彼は自身をゲイだともオカマだとも女性だとも言っていない。彼の周囲の人も誰もそれを言葉には出さないし、質問もしないが、ほとんどの人が彼が「女性的な振る舞いをして、男性と性愛関係を結ぶ人」であることを知っている。彼は周囲の人たちと男女問わず仲良く近所的なコミュニティを築いており、飲みに行ったり旅行に行ったり近所の集まりに出たりしている。他にも、同性婚とかパートナーシップ法には反対だけど、レズビアンとしか思えない人が親戚の集まりにパートナーを連れてきてもみんながそれを当然だと思っている、という状況とか。