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わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム【再掲載】
この記事は2010年1月20日に WAN (Women’s Action Network) のサイトに掲載された「【ライブ中継への反響・その1】わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」という記事の全文です。[元記事 @WAN]
本文
「一般の人にわかりやすい言葉で話して下さい」と言われる経験は、私たちフェミニストには日常茶飯事だ。そう言われるたびに私はその言葉に憤りを感じ、口をつぐむ。時には相手に噛み付くこともあるけれど、そこまでして相手に分かってほしいと思っているかというとそうでもない。何が頭に来るのかと言ったら、それはフェミニズムに「わかりやすさ」を求め、「わかりやすくないなら私はそれに賛同しないぞ」と、言外にほのめかす態度なのだと思う。そしてまた、自分がわからないということを「一般の人」という安易なカテゴリーを使って、あたかもかれらを代弁しているかのような振る舞いで当然のように開き直っている様子も、苦手だ。「一般の人」とはいったい、誰のことを言っているのだろう。
「主体がどうとかいう話には興味がないんですよね」とか、「そういう議論に何か意味があるんですか?」とか、あるいは「それは一般の女性の役に立たない理論だと思います」とか、そういうことを言われると、抽象的な議論はどこかに隠居して細々とやっていきたいものだわ、と思ってしまうのだけれど、しかしそれでも私にとってのフェミニズムは、誰かにとって「興味がない」ものだったり、「何」も「意味が」ないようなものだったり、「一般の女性」とやらにとって「役に立たない」ものであったとしても、私の人生や家族、友人の人生にとって重要だと思ってやっていることだ。たとえそれが他のフェミニストから拒絶されたとしても。
私が常日頃からこういうことを言われるのは、私にとってフェミニズムとクィア理論が密接に結びついているからかもしれない。フェミニズムは必ずしも異性愛女性のことだけを考える思想ではないし、クィア理論は必ずしも同性愛者やトランスジェンダーのことだけを考える思想ではない。両者の射程は思ったよりも広く、そして互いに裏切りつつ、協力し合い、反目しつつ、アイディアを盗み合う。その両方をきちんと分けられない私にとって、「一般の女性」や「一般の人」という言葉はほとんど意味を持たない。なぜならそういう言葉が発せられるとき、ほとんどの場合、異性愛の、貧困ではない、障害のない、人種・民族的にマジョリティの、先進国の人を指しているからだ。私のフェミニズムはそういう人たちの利益のためにあるのではないし、そういう人たちに「わかりやすい」言葉で説明するような義理も、動機も一切ない。むしろある種のマジョリティを「一般」というレトリックで欺瞞的に表現するその態度こそ、私が批判したいと常日頃思っているようなイデオロギーだ。
フェミニズムは、あるいは、私が信じ、惹かれているタイプのフェミニズムは、「一般」に迎合したりしない。これまでも私の尊敬するフェミニストたちは、一般を挑発するような言葉を作り出したり、反感を買いやすい主張やパフォーマンスをしたり、そして案の定強い反発を受けて来た。その1つ1つのやり方や戦略、その成果に関しては評価が分かれる所だし、私も必ずしもそれら全てに同意するわけではないが、それらの行動の背後にある情熱のようなものには敬意を表したいと思っている。
その点で「おまんこシスターズ」という言葉を打ち出した上野千鶴子氏、多くのフェミニストに総スカンを食らってもテレビで話し続け、世間から罵倒や攻撃を受けて来た田嶋陽子氏、社会に既に受け入れられている言語をずらす実践として “womyn” や “grrl” といった言葉を積極的に使って来たアメリカのフェミニスト(の一部)など、多くのフェミニストの態度を、その評価は横に置いておくにしても、私は尊敬する。
しかし先日の WAN x ジェンダーコロキアムの共催イベント、「男(の子)に生きる道はあるか?」において、私はまたもや、絶望することになった。「男性に通じるフェミニズム」を提示したい、「男子に楽になってもらいたい」という澁谷知美氏、「男性への理解と愛情を基に」本を書き、それに「反発が驚く程なかった」ということを嬉しそうに語る両氏。
もちろん世の中を変えようというときに、特に社会政策を変えようというときには、多くの人の賛同を得る必要がある。しかしフェミニズムが容易に「一般」に受け入れられるとき、それは必ずしもフェミニズムの思想の発展や広がり、普及を意味するとは限らない。「一般」受けする思想には、常に危険が伴う。それはジュディス・バトラーがお茶の水女子大学に講演にやって来たときに、彼女の文章は難解でエリート主義に陥っているのではないかという質問に対する返答として、抵抗なしに受け入れられる言説はつまり現状既に社会に織り込み済みの言説であって、それでは理解可能性の領域の拡大を狙うことはできないと言っていたこととも共鳴する。
私もまた、2008年に NWEC でワークショップを開く際、前日の打ち合わせにたまたま同席した方に言われたことがある。「そんなに難解な議論をしたのでは、理解を得られない。理解されたいのでしょう? だったらもっと一般向けの話し方をしなくては」と。
確かに、単純なことをわざわざ言葉をこねくり回して難解にする必要はないし、そんなパフォーマンスは私も嫌いだ。しかし、そもそも「一般的」とされるような現存の言語を用いて語ることは、正にその言語が同性愛嫌悪的でトランス嫌悪的で女性蔑視的であるときに、ほとんど不可能なのである。その点において私は既にある程度語る言葉を制限されているのであり、更にそれを「一般向け」に翻訳せよというのは、二重の暴力を行使することを意味する。
過去十数年のあいだクィア運動の中で培われて来た言語、更に言えば過去1世紀(あるいはそれ以上)のあいだフェミニストたちやゲイ・レズビアン運動の担い手が紡ぎだして来た言語、黒人解放運動や障害者運動がなんとかして、あらゆる言葉をつなぎ合わせ、作り出し、また本来の意味から引き剥がし自らの言葉に変えて来た言語。それらは、私たちが日常を生き延びるために、私たち自身の人生をよりよく理解し、よりよいものにするために、日々の実践の中から生み出された言語である。私は、あらゆる理論はそのように作り出されたと思うし、またそうではない理論には魅力を感じない。わかりにくいフェミニズムこそ、私の理解可能性の領域を広げてくれるし、社会の変化への希望を感じさせられる。
だが、澁谷氏の、そして時に上野氏の今回のイベントにおける発言には、絶望しか感じられなかった。「女子も辛いが、男子も辛い」という澁谷氏の発言は(それが実際に現実を反映していることは確かだが)あまりに迎合的だと思うし、「女というところから出発して、ジェンダー規範に縛られた人間を対象にし、更にそれを男にもおろしていく」実践としての『平成オトコ塾』も、その実証研究としての評価は横に置いて言えば、なぜそんなことをする気になったのかと不思議でしかたがない。それは、上野氏の「男性への愛」という話にも感じたことだが、何よりも「なぜ、フェミニズムがずっと批判し、拒否すべく尽力して来たような『母』の位置を、自ら体現してしまっているのだろう」という疑問が頭をよぎる。
上野氏は他にも、フェミニズムを「おばさん」の言説であるとし、男受けのする「娘さん」を降りて「おばさん」になる実践とフェミニズムを接続している。しかしそもそも「娘さん maiden 」と「おばさん crone 」とを分けるジェンダー規範を批判して来たのは、紛うことなきフェミニズムではなかったか。フェミニズムの歴史的蓄積はどこに行ってしまったのか。
新春企画ということで大々的に宣伝もして、ネット中継までして、録画したものをアップロードまでして、これが2010年段階の日本のフェミニズムの集大成なのかと思うと、絶望しか感じられないのは仕方がない。ただ、これが日本のフェミニズムを代表するわけではない、代表させてはならないということを私たちは肝に銘じて、フェミニズムの実践をして行かなければならないだろう。絶望ばかりもしていられないのだ。
上の記事を WAN サイトに投稿しようと思ったきっかけ
[元記事 @フェミニズムの歴史と理論]
先日 WAN (Women’s Action Network) の「よみもの」欄に寄稿したところ、早速受理され、今日既に掲載してもらっているようだ(すんげー早い!)。タイトルは「わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」というもので、 1/13 に行われたジェンダーコロキアムと WAN の共催イベント『男(の子)に生きる道はあるか : 新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美』の映像を観ての感想を書いた文章。ちなみにその映像はここをクリックするとアクセス出来ます。
よろしかったら他の方が書いている感想もどうぞ。(順番はアップされた順、たぶん)
- 笑おう、憤りと皮肉と拒絶とをこめて – tummygirl さん
- そんならわたしは『平成オマンコ塾』で – ミヤマアキラさん
- 主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」 – 山口智美さん
- 無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トーク – 斉藤正美さん
そもそもボクは WAN の問題については積極的にネット上で何か言うつもりはなく、個人的なブログにしろこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにしろ、一切文章をアップするつもりはなかった。それは、そもそも動画の内容が脳天を突き破るような、あるいはじっくりと時間をかけて肉を溶かす猛毒のような、さもなくばその両方であり、書く気力も出ない状態だったから。 tummygirl さんが先陣を切ってブログ記事にしているのを横目に、「あぁ偉いなあ。そしていい文章だなあ」と涙ぐむだけのあたし。
そんなときに山口智美さんに「っていうかマサキくんって WAN の呼びかけ人? 賛同者? だったよねー」と言われて、固まる。「えー!? あーーー、そうだったかもー!」くらいの記憶力(<研究者志望として、あるいはそれ以前に運動に携わるものとしてダメ)で、見事に忘れていた。ネット上を検索しても当時の呼びかけ人のリストが見つからず、でも確かに智美さんはリストにボクの名前を見たと言うし、呼びかけ人にだけ配信されて来たはずの準備会MLというものも、しっかりメールボックスに届いていた・・・。
「全くもう、バカだなぁ WAN は(笑)」くらいで、後はもうスルーしようと思っていたのに、何と自分が呼びかけ人として参加している団体だったなんて! という驚き、というかもはやショックで、これはもう、呼びかけ人として賛同した者の責任として何かしないわけにはいかないだろうと思った。
今でもボクは WAN はつぶれればいいとか破綻しちゃえばいいとか、あるいは存在を忘れられてしまえばいい(プレゼンスが下がればいい)とか、そういう風には思っていない。使い方次第でいかようにも使えると思うし、リソースが集まっているのはある意味では有益なこともあるだろう。その分例えば、アマゾンのアフィリエイトを使っている B-WAN のように、リソースをこぎれいにスマートにまとめられるシステムを利用しているからこそ、そこからこぼれ落ちる情報(アマゾンに無い本とか、自費出版の冊子とか)が更に周縁化されて行き、作り手も減るという問題はあるけれど。
とにかく当時呼びかけ人になった時のスタンスと、今のそれは、大して変わらない。 WAN に日本のフェミニズム、あるいは日本語話者による/対象のフェミニズムを代表させてはならないし、そういう意味で WAN が大きくなって影響力を持つようになることは避けたい。けれどネットを検索すればとりあえず WAN くらいはひっかかるよ、という程度に、つまりとりあえずのきっかけとして、とっかかりとして WAN に出会う、という程度になって欲しいという希望はあるし、同時に、昔からフェミニズムに関わって来た人たちにとっても、より「使える」リソースになって欲しいとも思っている。ボク自身が今回 WAN に投稿したのは、 WAN におけるそういうリソース作りへの関与を怠って来た自分に対する反省の意味も強い。
もちろん何が「使える」リソースで何が「使えない」リソースなのかというのは議論の余地があるけれど、それはボクが信じる限りのところを、口を挟んで行く(投稿したり、意見したり?というところで)という方法しかないかなと思っている。だからこそ今回は、例えば「 WAN のやったイベントは、異性愛中心主義的だった!」と思っても、呼びかけ人であるボクは外部のブログからそれを批判することは出来ないと感じた。やるなら内部で、つまり WAN のウェブサイト上でやるべきなのだし、恐らくこれまでもやるべきだったのだ。
【ICUのミスコンに反対するひとに10の質問】
6月3日、ことし10月末にICU(国際基督教大学)の学園祭(ICU祭)においてミスコンが開催されるという情報が、ツイッター上でながれた(ICU-CP9[主催団体]、2011年ICU祭実行委員会 企画調整局、ICU祭実行委員会、企画調整局サイト)。それからというもの、ツイッター上では様々な見解がいりみだれ、このイベントの開催に反対するわたしもいろいろな発言をしてきた。それらのツイートは togetter まとめ『ICU(国際基督教大学)でミスコン!?』にまとめることにし、ほかのひとの協力をえながら、2000以上のツイートを収集してきた。
そのなかでわかったことは、意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していないこと、そして意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していたことだ。つまり、賛成派も反対派も、おもったよりもおおかった。「どうでもいいじゃん」というひとはそもそもあんまりツイートでミスコンにふれない、ということかもしれないけれど、割合としてだけでなく、単純に数として、反対派も賛成派もおおくのツイートを発信していた。
そこで発信されたツイートには様々な論点がふくまれていたし、たとえばミスコンが企業とむすびついていることがおおいという指摘など、わたし自身がきづいていなかった論点もいくつかあった。反対派・賛成派のツイートをいくつもよんでいるうちに、賛成派にも多様な理由があり、反対派にも多様な理由があるのだなあということもわかった。わたし自身、反対派を表明するひとのツイートには、どうしても賛成できないものもみかけた。
もちろん、反対するひとはみんなおなじ理由で反対しなければいけないわけではないし、ある理由がほかの理由よりもすぐれているとも断定はできない。でも、「おなじ反対派だから」という理由で批判をさけることはおかしいとおもうし、わたしをふくめみんなの人生は「ミスコン」、ましてや「ICUのミスコン」だけでうめつくされているわけでもない。ことしのICUのミスコンが中止になろうと、あるいは世界中のミスコンがすべてなくなろうと、それ以外のところでわたしたちは様々な性の問題に直面するし、性以外の様々な問題にも直面する。「ミスコンに反対する」という1点において団結し、そのなかにあるちがいをにくちをつぐむのなら、それは、そういった「ほかの問題」を容認することになってしまうだろう。
というわけで、反対派にもいろいろな立場のひとがいるだろうとおもい、「ICUのミスコンに反対するひとに10の質問」というのをつくってみた。たぶんいろいろな回答があるだろうとおもう。「反対派」といえども、それぞれちがうおもいがあって反対しているんだ、ということが、これによってすこしだけあきらかになればいいな、とおもっている。
質問がわるいとか、10こじゃたりない、という指摘もあるとおもうけれど、とりあえずわたしがおもいつくかぎりで、論点となっているものをえらんでみた。(というか、わたしがちゃんと「反対派」として明確にしておきたい論点をえらんだので、わたしの関心にかなりかたよっているとおもいますm(_ _)m)
ICUのミスコンに反対するひとに10の質問1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど) 2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。 3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか? 4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか? 5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか? 6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか? 7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。 8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。 9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか? 10. ミスコン関係なく、あなたが普段から「よくないなあ」とおもっていることがあったら、おしえてください。 |
こういう「〜への10の質問」のたぐいは、わたしが回答するときにはいつも「質問がわるい!」とか「重要なことがぜんぜんふくまれてない!」とかおもってしまうのだけれど、きっとほかのひとからしたらこれもそういうふうにおもわれるかもしれない。というわけで、改変は大歓迎です。
わたしの回答
「ICUのミスコン企画に反対する会」のFacebookページとグループにさそわれて、いまは管理人としてもうごいているのだけど、この会はわたしやもうひとりの管理人の個人の意見をだす場所ではなく、情報や意見ををやりとりする場所、まとまってなにかやりたいひとがきっかけにできる場所として運営している。共同声明を十数名の呼びかけ人の名義でつくったけれど、これはあくまで呼びかけ人の名義であり、「反対する会」全体の意見を代表するものではない。なので、個人的な意見はツイッターでのみ発信してきた。というわけで、以下のわたしの回答も、「反対する会」や「反対派全体」の意見を代表するものではないことを、つよく、言っておきます。
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1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど) はい。 2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。 ひとつに、「よい女性像」が「よい男性像」にくらべて多様性にとぼしく、しかも実現するのが比較的むずかしいということがあります。たとえば男性であれば「愛想はわるいけど、正直もの」とか「ブサイクだけど思いやりがある」ような男性が「よい男性像」としてえがかれることがありますが、女性はなかなか「だけど」とおもってもらえません。 つぎに、「みる・みられる」の関係は、これまでずっと「男性=みる人、女性=みられる人」というかたちをとってきました。これも、テレビをはじめとした芸能ビジネスの発展や、芸能情報発信をする地位(プロデューサーなど)に女性がふえてきたこと、そして女性がみずから自分の欲望やのぞむことをくちにだせる機会が(女性運動やその他の歴史をとおして)増えてきたことなどによって、もちろん最近はかなりかわってきています。男性も女性のように「みられる人」の立場にたたされることがあること、そして男性も女性のように「みられる人」として商品(写真集、イメージビデオなど)にされることがあることは、先進国とよばれる地域にいて大衆文化を消費しているひとなら容易に実感できる歴史的変化だろうとおもいます。 また、「ミスコン」という言葉には、「ミス」という独身女性につけられる言葉がふくまれています。独身女性しかエントリさせないというルールによって、いったいだれが得をしているのでしょう。「ミセス」(既婚女性)がまじっていたらこまるのは、だれなのでしょうか。 また、「えらぶ」側のひとのおおくが男子生徒や男性教員であること、そして前述のとおり、いずれにしても世にあふれている「よい女性像」を構築しているのは男性の目線がほとんどであることは、以下のことを意味します。つまり、ミスコンで1位にかがやいた女性は、みずからの身体や能力だけを学外にしらしめるだけでなく、どのような男性的目線が彼女をえらんだのかをも体現しているということです。すなわち、「ミス〇〇大学」は、その大学の「女性生徒」だけでなく、その大学における「男性たちの目線」をも代表させられるのです。「どんな女を評価する男性がいる大学なのか」の指標のひとつに、ミスコンがある、という。また、学内の男性同士でも「やっぱあの子が一番かわいかったよな」みたいなやりとりで、意識の統一が成功したりします(実際には失敗していても、失敗していることを告発できない空気が生まれたり)。「みる・みられる」の関係は、女・男のあいだだけではなく、ひとびとのあいだに様々な境界線を引き、固定化し、また、(たとえばミスコンのような)儀式によって最確認されるものなのです。 3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか? まず、「容姿だけではなく」といっても、結局、容姿が(ある程度)「よい」と認定されなければほかにどんな長所があったとしても「ミスコン」で1位になることはむずかしいでしょう。 4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか? まず、これらの派生ジャンルはすべて、ミスコン批判を回避するためにかんがえだされたものだということをかんがえるべきだとおもいます。つまり、「ミスターコンもやるからいいだろう」などといってミスコンを擁護したいがためにかんがえだされたものだということです。そのやりかた自体に、わたしは卑怯さをかんじます。 また、上にかいたように、わたしがミスコンに反対する理由は、ミスコンが社会全体にある「よい女性像」とのかかわりにおいて、それを強化したり、多様に発展していくながれをとめる効果をもっていることです。ですから、社会全体において男性がどうみられているか、女性がどうみられているか、そして女装・男装するひとがどうみられており、しないひとがどうみられているか、という点でかたよりがある状態では、かれらをどんなに形式的には平等にならべても(あたかも本当に平等であるかのように)、社会のそういったかたよりに影響をうけていないわけがない審査員や聴衆にランクづけさせるのでは、ちっとも平等ではありません。 また、女装コンテストは最近おおくなってきましたが、男装コンテストは非常にすくないです。これは、ミスコンがミスターコンよりも圧倒的におおいのと同様に、「よい男性像」よりも「よい女性像」のほうが画一的で、ランクづけがしやすいという要因が1つかんがえられます。また、男性による「女装」はなぜか男性にも女性にも肯定的にとらえられることがおおい一方で、女性による「男装」がなぜか同様の評価をうけづらいという状況もあります。 最後に、「ICUらしさ」コンテストの問題も指摘しておきます。そもそも「ICUらしさ」とはなにを意味するのでしょうか。ICUは、エリート校です。実際にあたまがいいかどうかは個人によりますし、「あたまがいい」という基準もあいまいなものですが、すくなくとも学費はたかく、学生や教員にもとめられる学術的水準もたかく設定されています。ここには、階層の問題や、教育の機会の問題があります。 5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか? ミスコンにエントリする女性には、様々なひとがいます。たとえば、「匿名の現役ミスの方からのメッセージ」で紹介させていただいた現役ミスのかたは、まちづくりに積極的に参加するつもりでエントリしたそうです。また、社会貢献を本気でやっているミスのひと、ミスコンのなかにある問題点を改善しようと内部からがんばっているミスのひと、おおきなミスコンにでて有名になることで知名度をあげて社会につたえたいことを発信しようとしているひと、などなど、本当に多様です。もちろん、就職活動に有利だからという合理的な判断をするひともいます。たんにたのしいイベントがすきだから、というひともいます。自分にもっと自信をもつために参加するひともいます。 6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか? 上にかいたような、性別や、性に関する自己表現、セクシュアリティ、民族、障害、階層など、社会にたくさんある様々な「かたより」がなくなったら、ミスコンをやってもいいとおもいます。もちろん、そんな社会には「ミスコンをやろう」というひとなんていないでしょうけれども。 7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。 ・ミスコンをやる大学はレベルがひくく幼稚だが、これまでやってこなかったICUはレベルがたかかった、的な意見。 ・ICUでやってもどうせかわいい子なんていないよ、という意見。 ・ミスコンにでるような女は女の敵、という意見。 ・大学当局によってつぶされて、企画者は処罰されるべき、という意見。 8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。 今回のミスコン企画が実際に開催されるかどうかは、わたしは個人的にはそこまで重要なことではないとおもっています。なので、「中止」を目標にはしていません。中止されなかったとしても、ICUの学生や教職員、そして学外のひとたちがこの問題について、いままでよりもうんとかんがえてくれることを、個人的な目標にしています。 9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか? 社会全体であり、とくにICUにこれまでかかわってきたひと全員(わたしふくめ)です。なにに責任があるかといったら、ミスコン企画が可能になるような社会をわたしたちひとりひとりが形成し(つづけ)ていることであり、ICUという場所にいながら、その身近な場所すら変革しようとしてこなかったことに、です。 ・児童ポルノ規制法の強化と、非実在青少年関連の規制論 |
これだけのながい文章になると、同意できないところ、まったくもって「おかしい!」とおもうところなど、たくさんあるとおもいます。どうぞしたのコメント欄やツイッターでご批判おねがいいたします。
