ブログアーカイブ
【ICUのミスコンに反対するひとに10の質問】
6月3日、ことし10月末にICU(国際基督教大学)の学園祭(ICU祭)においてミスコンが開催されるという情報が、ツイッター上でながれた(ICU-CP9[主催団体]、2011年ICU祭実行委員会 企画調整局、ICU祭実行委員会、企画調整局サイト)。それからというもの、ツイッター上では様々な見解がいりみだれ、このイベントの開催に反対するわたしもいろいろな発言をしてきた。それらのツイートは togetter まとめ『ICU(国際基督教大学)でミスコン!?』にまとめることにし、ほかのひとの協力をえながら、2000以上のツイートを収集してきた。
そのなかでわかったことは、意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していないこと、そして意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していたことだ。つまり、賛成派も反対派も、おもったよりもおおかった。「どうでもいいじゃん」というひとはそもそもあんまりツイートでミスコンにふれない、ということかもしれないけれど、割合としてだけでなく、単純に数として、反対派も賛成派もおおくのツイートを発信していた。
そこで発信されたツイートには様々な論点がふくまれていたし、たとえばミスコンが企業とむすびついていることがおおいという指摘など、わたし自身がきづいていなかった論点もいくつかあった。反対派・賛成派のツイートをいくつもよんでいるうちに、賛成派にも多様な理由があり、反対派にも多様な理由があるのだなあということもわかった。わたし自身、反対派を表明するひとのツイートには、どうしても賛成できないものもみかけた。
もちろん、反対するひとはみんなおなじ理由で反対しなければいけないわけではないし、ある理由がほかの理由よりもすぐれているとも断定はできない。でも、「おなじ反対派だから」という理由で批判をさけることはおかしいとおもうし、わたしをふくめみんなの人生は「ミスコン」、ましてや「ICUのミスコン」だけでうめつくされているわけでもない。ことしのICUのミスコンが中止になろうと、あるいは世界中のミスコンがすべてなくなろうと、それ以外のところでわたしたちは様々な性の問題に直面するし、性以外の様々な問題にも直面する。「ミスコンに反対する」という1点において団結し、そのなかにあるちがいをにくちをつぐむのなら、それは、そういった「ほかの問題」を容認することになってしまうだろう。
というわけで、反対派にもいろいろな立場のひとがいるだろうとおもい、「ICUのミスコンに反対するひとに10の質問」というのをつくってみた。たぶんいろいろな回答があるだろうとおもう。「反対派」といえども、それぞれちがうおもいがあって反対しているんだ、ということが、これによってすこしだけあきらかになればいいな、とおもっている。
質問がわるいとか、10こじゃたりない、という指摘もあるとおもうけれど、とりあえずわたしがおもいつくかぎりで、論点となっているものをえらんでみた。(というか、わたしがちゃんと「反対派」として明確にしておきたい論点をえらんだので、わたしの関心にかなりかたよっているとおもいますm(_ _)m)
ICUのミスコンに反対するひとに10の質問1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど) 2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。 3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか? 4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか? 5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか? 6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか? 7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。 8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。 9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか? 10. ミスコン関係なく、あなたが普段から「よくないなあ」とおもっていることがあったら、おしえてください。 |
こういう「〜への10の質問」のたぐいは、わたしが回答するときにはいつも「質問がわるい!」とか「重要なことがぜんぜんふくまれてない!」とかおもってしまうのだけれど、きっとほかのひとからしたらこれもそういうふうにおもわれるかもしれない。というわけで、改変は大歓迎です。
わたしの回答
「ICUのミスコン企画に反対する会」のFacebookページとグループにさそわれて、いまは管理人としてもうごいているのだけど、この会はわたしやもうひとりの管理人の個人の意見をだす場所ではなく、情報や意見ををやりとりする場所、まとまってなにかやりたいひとがきっかけにできる場所として運営している。共同声明を十数名の呼びかけ人の名義でつくったけれど、これはあくまで呼びかけ人の名義であり、「反対する会」全体の意見を代表するものではない。なので、個人的な意見はツイッターでのみ発信してきた。というわけで、以下のわたしの回答も、「反対する会」や「反対派全体」の意見を代表するものではないことを、つよく、言っておきます。
|
1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど) はい。 2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。 ひとつに、「よい女性像」が「よい男性像」にくらべて多様性にとぼしく、しかも実現するのが比較的むずかしいということがあります。たとえば男性であれば「愛想はわるいけど、正直もの」とか「ブサイクだけど思いやりがある」ような男性が「よい男性像」としてえがかれることがありますが、女性はなかなか「だけど」とおもってもらえません。 つぎに、「みる・みられる」の関係は、これまでずっと「男性=みる人、女性=みられる人」というかたちをとってきました。これも、テレビをはじめとした芸能ビジネスの発展や、芸能情報発信をする地位(プロデューサーなど)に女性がふえてきたこと、そして女性がみずから自分の欲望やのぞむことをくちにだせる機会が(女性運動やその他の歴史をとおして)増えてきたことなどによって、もちろん最近はかなりかわってきています。男性も女性のように「みられる人」の立場にたたされることがあること、そして男性も女性のように「みられる人」として商品(写真集、イメージビデオなど)にされることがあることは、先進国とよばれる地域にいて大衆文化を消費しているひとなら容易に実感できる歴史的変化だろうとおもいます。 また、「ミスコン」という言葉には、「ミス」という独身女性につけられる言葉がふくまれています。独身女性しかエントリさせないというルールによって、いったいだれが得をしているのでしょう。「ミセス」(既婚女性)がまじっていたらこまるのは、だれなのでしょうか。 また、「えらぶ」側のひとのおおくが男子生徒や男性教員であること、そして前述のとおり、いずれにしても世にあふれている「よい女性像」を構築しているのは男性の目線がほとんどであることは、以下のことを意味します。つまり、ミスコンで1位にかがやいた女性は、みずからの身体や能力だけを学外にしらしめるだけでなく、どのような男性的目線が彼女をえらんだのかをも体現しているということです。すなわち、「ミス〇〇大学」は、その大学の「女性生徒」だけでなく、その大学における「男性たちの目線」をも代表させられるのです。「どんな女を評価する男性がいる大学なのか」の指標のひとつに、ミスコンがある、という。また、学内の男性同士でも「やっぱあの子が一番かわいかったよな」みたいなやりとりで、意識の統一が成功したりします(実際には失敗していても、失敗していることを告発できない空気が生まれたり)。「みる・みられる」の関係は、女・男のあいだだけではなく、ひとびとのあいだに様々な境界線を引き、固定化し、また、(たとえばミスコンのような)儀式によって最確認されるものなのです。 3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか? まず、「容姿だけではなく」といっても、結局、容姿が(ある程度)「よい」と認定されなければほかにどんな長所があったとしても「ミスコン」で1位になることはむずかしいでしょう。 4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか? まず、これらの派生ジャンルはすべて、ミスコン批判を回避するためにかんがえだされたものだということをかんがえるべきだとおもいます。つまり、「ミスターコンもやるからいいだろう」などといってミスコンを擁護したいがためにかんがえだされたものだということです。そのやりかた自体に、わたしは卑怯さをかんじます。 また、上にかいたように、わたしがミスコンに反対する理由は、ミスコンが社会全体にある「よい女性像」とのかかわりにおいて、それを強化したり、多様に発展していくながれをとめる効果をもっていることです。ですから、社会全体において男性がどうみられているか、女性がどうみられているか、そして女装・男装するひとがどうみられており、しないひとがどうみられているか、という点でかたよりがある状態では、かれらをどんなに形式的には平等にならべても(あたかも本当に平等であるかのように)、社会のそういったかたよりに影響をうけていないわけがない審査員や聴衆にランクづけさせるのでは、ちっとも平等ではありません。 また、女装コンテストは最近おおくなってきましたが、男装コンテストは非常にすくないです。これは、ミスコンがミスターコンよりも圧倒的におおいのと同様に、「よい男性像」よりも「よい女性像」のほうが画一的で、ランクづけがしやすいという要因が1つかんがえられます。また、男性による「女装」はなぜか男性にも女性にも肯定的にとらえられることがおおい一方で、女性による「男装」がなぜか同様の評価をうけづらいという状況もあります。 最後に、「ICUらしさ」コンテストの問題も指摘しておきます。そもそも「ICUらしさ」とはなにを意味するのでしょうか。ICUは、エリート校です。実際にあたまがいいかどうかは個人によりますし、「あたまがいい」という基準もあいまいなものですが、すくなくとも学費はたかく、学生や教員にもとめられる学術的水準もたかく設定されています。ここには、階層の問題や、教育の機会の問題があります。 5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか? ミスコンにエントリする女性には、様々なひとがいます。たとえば、「匿名の現役ミスの方からのメッセージ」で紹介させていただいた現役ミスのかたは、まちづくりに積極的に参加するつもりでエントリしたそうです。また、社会貢献を本気でやっているミスのひと、ミスコンのなかにある問題点を改善しようと内部からがんばっているミスのひと、おおきなミスコンにでて有名になることで知名度をあげて社会につたえたいことを発信しようとしているひと、などなど、本当に多様です。もちろん、就職活動に有利だからという合理的な判断をするひともいます。たんにたのしいイベントがすきだから、というひともいます。自分にもっと自信をもつために参加するひともいます。 6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか? 上にかいたような、性別や、性に関する自己表現、セクシュアリティ、民族、障害、階層など、社会にたくさんある様々な「かたより」がなくなったら、ミスコンをやってもいいとおもいます。もちろん、そんな社会には「ミスコンをやろう」というひとなんていないでしょうけれども。 7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。 ・ミスコンをやる大学はレベルがひくく幼稚だが、これまでやってこなかったICUはレベルがたかかった、的な意見。 ・ICUでやってもどうせかわいい子なんていないよ、という意見。 ・ミスコンにでるような女は女の敵、という意見。 ・大学当局によってつぶされて、企画者は処罰されるべき、という意見。 8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。 今回のミスコン企画が実際に開催されるかどうかは、わたしは個人的にはそこまで重要なことではないとおもっています。なので、「中止」を目標にはしていません。中止されなかったとしても、ICUの学生や教職員、そして学外のひとたちがこの問題について、いままでよりもうんとかんがえてくれることを、個人的な目標にしています。 9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか? 社会全体であり、とくにICUにこれまでかかわってきたひと全員(わたしふくめ)です。なにに責任があるかといったら、ミスコン企画が可能になるような社会をわたしたちひとりひとりが形成し(つづけ)ていることであり、ICUという場所にいながら、その身近な場所すら変革しようとしてこなかったことに、です。 ・児童ポルノ規制法の強化と、非実在青少年関連の規制論 |
これだけのながい文章になると、同意できないところ、まったくもって「おかしい!」とおもうところなど、たくさんあるとおもいます。どうぞしたのコメント欄やツイッターでご批判おねがいいたします。
マーティン・ルーサー・キングJr.の引用文とオサマ・ビン・ラディンの死
オサマ・ビン・ラディンが殺されてまもなく、英語圏で以下の引用文が一気に広がり、5月2日の夜(米国)にはわたしの Facebook のニュースフィード(ツイッターで言うタイムライン)にも既に数個同じものが流れていた。英語ブログでこのことについて書いたらいきなり普段の数倍のアクセスがあったので、この引用文への関心が高い様子が分かると思う。日本語話者のツイッターアカウントにも流れ始めていたので、日本語ブログででも書いておこうと思います。
引用文の内容は以下の通り。和訳は適当です。
“I mourn the loss of thousands of precious lives, but I will not rejoice in the death of one, not even an enemy. Returning hate for hate multiplies hate, adding deeper darkness to a night already devoid of stars. Darkness cannot drive out darkness: only light can do that. Hate cannot drive out hate: only love can do that.” –Martin Luther King, Jr.
「わたしは、かけがえのない数千の命が失われたことを悼むと同時に、たった一人の死も——たとえそれが敵であっても——喜んだりはしない。嫌悪に嫌悪で返すことは、嫌悪を増大にするだけであり、既に星のない夜に更に暗さを追加するようなものだ。暗黒は暗黒を追いやることはできない。それが出来るのは光だけだ。嫌悪は嫌悪を追いやることはできない。それが出来るのは愛だけだ。」マーティン・ルーサー・キングJr.
この引用文を初めに見たとき、「MLK(マーティン・ルーサー・キング)が生きてたらそう言うかもしれないけど、オサマ・ビン・ラディンが殺されたという今の文脈で、それをMLKが言うことは適切だろうか」と思った。
ビン・ラディン関連のウェブページばかりが検索に引っかかるので大変な思いをしてやって見つかったのが、以下のサイトだ。
- “I mourn the loss of thousands of precious lives, but I will not rejoice in the death of one, not even an enemy.” – Martin Luther King, Jr : reddit.com
- Snopes, you are too slow for internet speed — fake MLK Osama-related quote « Erik’s Blog
- Out of Osama’s Death, A Fake Quotation is Born – Megan McArdle – National – The Atlantic
全て、今回出回ったMLKの引用文が偽物である、似ている箇所はあるけどMLKの本などにはそんな言葉は無い、という内容だ。MLKの言葉である、という証拠が出ていない現状では、わたしはこの引用文を偽物だととりあえず思うことにした。
でも、この引用文が偽物であるからといって、単に引用(というか、偽情報の拡散)をやめればいいかというと、そうでもないと思う。この引用文が出回っていること、それが意味すること、それがもたらす効果などは、引用文が本物かどうかとは関係ないのだから。多くの米国市民(その中には「(今のところ)今世紀最大のテロリスト!オサマ・ビン・ラディンの死!」を祝っている人もたくさんいる)にとって、この引用文は命を大切にすることについて考えるきっかけになるだろう。
けれど、引用文が本物だろうが偽物だろうが、オサマ・ビン・ラディンの死という文脈においてはこの引用文は不適切と言わざるを得ない。
そもそも、MLKはオサマ・ビン・ラディンを「敵」とみなしただろうか。不利益や酷い差別を受けていた多くの黒人と一緒に黒人市民権運動を通して白人至上主義的な米国社会から権利や尊重を少しずつ勝ち取る運動をしたMLKにとって、「敵」とは一体誰だったのか。
「”Love is the only force capable of transforming an enemy to a friend” 敵を友人に変えることの出来る唯一の力は、愛である」とMLKは言った。市民権運動の文脈での「敵」は、暴力において優位に立っていた者のことである。であれば、MLKにとっての「敵」とは「白人至上主義者」だったと考えて間違いない。
「テロとの戦い」という言葉が反ムスリムの政治活動や中東出身者への社会全体の嫌悪を支えるレトリックになっているいま、自分の言葉が(自分のじゃないんだけど、たぶん)「うーん、わたしたちにとってビン・ラディンは敵だけど、死んだのを喜んだりはしないよ」というリベラルな自己表現に使われることをMLKは果たして喜ぶだろうか。「わたしたち」はいったい誰か。もし引用者が「わたしたち」にMLKをも含まれると思っているなら、ひどく間違えていると思う。
確かにMLKは、「”Returning violence for violence multiplies violence” 暴力に暴力で応酬することは暴力を増大させる」と言った。ここで、1つめの「暴力」をV1と呼び、2つめの「暴力」をV2と呼ぼう。すると、「V1にV2で応酬することは暴力を増大させる」となる。そして、ここでのV1とはいったい誰の暴力だろうか。多くの人は9・11をV1だと思っているらしい。けれど、それは大きな間違いだ。
世界で起きた様々な暴力の歴史を全て振り返ることは難しいけれど、規模・期間・効果の面で考えると、わたしにはV1は西洋社会(特に米国)がサウジアラビア、イラクその他でやってきた物理的・経済的・社会的暴力(イスラエルを支持していることなども含め)のことであるように思える。9・11は、そもそもV2だったのだ。オサマ・ビン・ラディンとアル・カイダの仲間が行ったのは、「暴力に暴力で応酬すること」だったのだ。もちろん、それに対して2000年代米国や米国に親和的な国家が更なる暴力を引き起こしたことを考えると、MLKの「暴力を増大させる」というのは真実だが。
もし引用者がMLKのものだったとしても、米国市民がそれを引用する資格は無いと思う。世界で起きている暴力を止めたいと思っている中東の人々によって引用されるべきもののはずだ。もちろんそれは、世界で起きている暴力の責任が中東の人々にあるからかれらが止めるべきだと言っているのではない。MLKの時代においても、MLKの言葉は黒人に向けられていたけれど、実際に暴力をやめるべきだったのは黒人じゃなくて白人至上主義者たちだ。同様に、中東における暴力を米国等西洋国家がやめるべきだというのは当然。
MLKを引用すること(MLKの言葉ですらないんだけど、たぶん)によって、米国が行っている暴力の責任から個人が逃れることは出来ない。あたかも全ての始まりはオサマ・ビン・ラディンの暴力であったかのような振る舞いでオサマ・ビン・ラディンを「擁護」するのはやめて、米国・英国・日本、そして中東の人々の土地に軍を送った全ての国の責任を追求しなければいけない。なぜなら、わたしたち先進諸国は9・11というV2に対して、V3で応酬したのだから。
*修正*
MLKは「”Returning violence for violence multiplies violence” 暴力に暴力で応酬することは暴力を増大させる」とは言っていませんでした。「”Returning hate for hate multiplies hate” 嫌悪に嫌悪で応酬することは嫌悪を増大させる」、そして「”violence multiples violence” 暴力は暴力を増大させる」とは言っています(ここをクリックすると本の該当部分が見れます)。この違いによって上で書いたことが無意味になるわけではないですが、引用文の不正確さを指摘する記事で引用ミスしてたんじゃ目も当てられないわオホホ。ごめんなさ〜い。
